パニック障害患者、まったりとブログやる

パニック障害になってしまいました。言葉遊びしてます。Twitter@lotus0083 ふぉろーみー。

その裏に見える男の戦い

電車はある一定のリズムを刻む。

 

そのリズムの捉え方は、自分の心の状態・置かれた状況によってスライムのように変化していく。自分の心が落ち着けるほど平和な気持ちでいるならば、そのリズムは眠りを誘う心地よいものになる。しかし、一たび電車の外からそのリズムを聞くと、心の底から止んでほしいと願うほどの耳に障るものになる。

 

なるほど。僕たちのモノの捉え方というのは、かなりの部分で空間に依存しているのかもしれない。電車の内と外では、リズムの捉え方がまるで変ってくる。同じリズムを体験するのであれば、やはり自分の心を落ち着けられるような時間帯に、電車の中にいることが望ましい。

 

 

平日の午後の時間帯こそ、まさにそのような安らぎを提供してくれる時間帯である。

 

 

車内を見回すと、ジャージ姿の女子高生が並んで座って楽しそうに喋っている。ベビーカーを脇に置いて、子供の寝顔を覗き込んでいる母親。トレッキングの帰りだろうか、リュックを背負って水筒のお茶を飲んでいる中年の女性。世間で起きていることは自分には関係ないといったような感じで読書にふける、年老いた女性。

 

電車の中は、平和な空気で満ちていた。暑すぎない車内。穏やかな話し声。ここでは、皆が適度な距離を保ちつつ、ささやかではあるが幸福な時間が経過してゆく。

 

 

もしもこのままの人数で、このままの距離間でそれぞれが存在し続けたならば、永遠に戦争なんて起こらないのではないだろうか。

 

そういった雰囲気が電車内には満ちていた。

 

 

しかし、時というものは残酷にも進み続けるし、空間は常に変化をしていく。こちらの願いとは関係なく。いつだって、平和な空間は破滅の可能性をはらんでいる。恐ろしいほど崩れやすい均衡の上にしか、平和は存在しないのだろう。

 

 

それは、この電車内でも同じことだ。

 

 

比較的乗降する人々が多い駅に止まって、ドアが開いた瞬間のことだ。

 

 

 

中年の男性がもの凄い車内に駆け込んできて、シートの端に座り、窓を空けたのだ。何かに追われてこの車内に逃げ込んできたような緊迫した雰囲気を漂わせていた。

 

最近の電車の窓は、上の部分しか開けられないようになっている。しかも開けるといっても、ほんの少ししか開かない。そしてその男性は席に着くや否や、そのほんの少し空いた窓に顔を寄せ、外の空気を吸おうと必死になっていた。まるで、この車内には毒が充満していて、外の新鮮な空気を少しでも多く取り込もうとしているかのように。

 

 

この瞬間、車内の均衡の破滅が起こった。

 

 

周りの乗客のリアクションは想像に難くは無いだろう。誰もかれもがその男性に注目し、そして、自分に被害が出ないよう心の中で祈り始めた。目の前の女子高生は苦笑を浮かべながらも固まっている。全員が蛇に睨まれた蛙のようであった。

 

 

僕も、最初は正直面食らってしまった。

 

 

普通に考えたら、そんなことをする人は稀である。しかも、花粉症の季節に。暖かくなってきたとはいえ、まだ窓を空けるほどの暑さではない。そもそも、電車内の窓を空ける行為自体が珍しいのだ。

 

そう考えると、この男性の行為はかなり奇異に映る。おまけに、全身が緑色だったのだ。まるで、ミドリガエルのように。どちらかと言えば、僕にとっては男性の類まれなるファッションセンスのほうが気になっていた。

 

 

誰もが、彼と関わり合いになりたくないと思っていた。

 

 

でも、僕は彼の行為に思いを馳せてみた。一体何が彼をこのような行為をすることに追いやったのだろうか。

 

 

僕は、このブログのタイトルにもあるようにパニック障害を患っている。かなり回復してきたとはいえ、やはり閉鎖空間が苦手だ。電車が停止信号などで予期せず止まったりすると、僕の心拍数はどんどん上がっていく。とにかく外に出たい衝動に駆られるのだ。

 

きっと、この男性も何かしらの意味があって空けているのだろう。もしかしたら、僕と同じような病気にかかっているのかもしれない。窓を少しでも開けることによって、閉鎖空間を打破し、心を落ち着けようとしていたのかもしれない。

 

もしくは、この男性は重度のハウスダストアレルギーで、埃が少しでも舞う空間が苦手なのかもしれない。そういえば、緑色の服は上下ともにナイロン製で、シャカシャカと音を立てていた。

 

またあるいは、この男性は平和ボケをしている僕たちに一石を投じたかったのかもしれない。平和とは恐ろしく脆いものである。崩すことなど簡単であると。

 

 

そう考えると、この男性は決して僕たちを苦しめようとして、このような行為に至ったのではないというように思える。いや、むしろ、自分を守る聖なる戦いに身を投じ、あるいは、僕たちに啓示を与えようと自らの身体を犠牲にしたのかもしれない。

 

 

おっさん、悪かった。変な目で見つめて申し訳なかった。おっさんだって苦しかったんだね。全体の利益と自分の利益を秤にかけて、悩んでいたんだね。ものすごい勇気を出して、電車に乗ったんだね。碇シンジ君のように。

 

 

そうだ、誰もおっさんを責められない。平和で物静かな空間は壊されてしまったかもしれないが、それは直接的には誰にも被害を与えない。おっさんは、緊急を要しているのかもしれないのだ。自分のこと、この日本のことを考えた時に。

 

 

僕はパニック障害になってしまって、悪いことばかり起こっていると思っていた。

 

しかし、そんなことは無いのだ。

 

もし僕がパニック障害では無かったら、閉鎖空間が苦手な人がいるなんて思いもしなかっただろう。いや、閉所恐怖症などは知っていたが、閉鎖空間の辛さは真に胸には迫ってこなかっただろう。

 

そして、病気にかかる前の僕だったら、そのおっさんを奇異な目で見て、全力で避けようとしただろう。なんなら、その窓から飛び降りてしまえ、なんて思っていたかもしれない。

 

 

でも、僕は、そんな奇異に見えるおっさんの行為の裏側に、戦っているおっさんの姿を見たのだ。

 

 

そんな目で人を見ることが出来ると、ほんの少しだけ優しい気持ちになれる。

 

 

そうやって、人が人に対してほんの少し優しくなることが出来れば、この世界ももう少し住みやすい世界になるのかもしれない。

 

 

おっさん、そんな考えに気付かせてくれてありがとう。

 

 

僕は、イタリア人のような粋な笑みを浮かべ、大げさにアクションを取りながら握手したい気持ちでいっぱいだった。その服のセンスはどうかと思うけど。

 

 

 

そんなことを思いふけっていると、おっさんはいきなり窓を閉め、普通に座りスマホを見だした。

 

 

 

おっさん、僕の思考時間とエネルギーを返せ。