パニック障害患者、まったりとブログやる

パニック障害になってしまいました。言葉遊びしてます。Twitter@lotus0083 ふぉろーみー。

久しぶりなんてもんじゃない

こうして記事を書くことはずいぶんと久しぶりです。

今回の記事は、報告と自分の記録用です。

 

去年の9月に書き上げた小説を、何回か書き直し推敲しまして、自分の初めての小説が完成しました。

思えば、文章を書くということを覚えたのはこのブログがきっかけでした。何となく、感慨深いものがあります。

 

僕はパニック障害ですが、この病気にならなければ文章を書こうとなんて思わなかったと思います。

現在、病気のほうはかなり落ち着いてきていますが、それでもいくつかの薬は手放せません。

 

それでも、病気がきっかけとなって一つの作品が僕から産み出されたということは、僕の一つの自信になりました。

 

この小説をブログで公開したいのですが、現在、いくつかの賞に応募することを予定していますので、箸にも棒にも掛からなかったら、このブログですこしずつ紹介できればなと思っています。

 

音楽や文学や絵画などの芸術は、人が持つ苦しみとか悲しみを昇華させてくれるものだと思います。そして、苦しんだ分だけ悲しんだ分だけ、人の心を動かす作品が出来るのだと思います。

 

芸術は、誰にでもできる身近なものです。

 

もしも、何か病気とか悩みとか悲しいことがあったら、詐欺同然のヒーリングサロンや自己啓発系の本に貴重なお金を費やすのではなく、パソコンのキーボードを叩いて、あるいは、色鉛筆と白いメモ帳を手にして、簡単な言葉や簡単な絵を描いてみませんか?

 

何かを作って表現することは、とても楽しいです。

ついに

 久しぶりの投稿です。更新は4か月ぶりになります。気が付けばもう10月が目の前に。前に記事を投稿した時は、梅雨の直前。それから短い夏が過ぎ、今は秋直前。そしてもう少しで、パニック障害にかかってから1年が経とうとしています。

 

今まで小説を書いていました。コツコツほぼ毎日書き続け、つい先日ようやく形になりました。

 

いや、あっという間でした。本当に。

 

体調が良い時も悪い時も書き続け、一つの作品が出来たというのは感慨深いものがあります。まだまだ直しは必要となりますが、とりあえず一旦作業を終えました。

 

やっぱり、ブログとは全然感覚が違いますね。

 

これからちょいちょいブログを書こうと思います。文章力の維持の為に、気が向いた時に更新しようと思います。

 

とりあえず、小説を書いていて思ったことは、

 

言葉というものは美しいということです。

 

ブログは小説とは趣が全く違いますが、暇なときにまた文章を読んでくれたら嬉しいと思います。

先生、小説が書きたいです

皆さんこんばんは、岸野です。

 

ブログの更新がすっかり滞ってしまいました。約2週間前の記事で書かせて頂いたように、書きたい時にだけ書く、ということを宣言したかと思います。実際にこうやって2週間もの感覚が空くと、記事が更新されないことに対しての予防線をお前は張ったのだ、と自分に突っ込みたくなりますね。

 

しかし、何も書いていないかと言えば、全くそうではありません。むしろ、毎日何らかの形で書いています。それは、付箋のようなものにちょっと書かれていたり、スマホのメモ帳に書かれていたりします。一日に大体2つ程度のお話は書いているかと思います。

 

おかげで、僕の机の上は汚い字で書きなぐられた付箋だらけで、何か一端の文豪のような感じになっています。何か話を思いついたり、表現を思いついたりしたら片っ端から書いているので、毎日結構な勢いで付箋の数は増えています。

 

何故僕がこういう作業をしているかと言えば、小説を書きたくなったからです。

 

今までブログの記事を書いていて、自分の人生を振り返ることが多くなりました。そして、自分のブログの記事を読んでいて、一つの長編小説を書きたい衝動に駆られました。

 

こうやって文章を書くようになったのは今年の1月に入ってからで、今までに執筆経験はありません。まして、長編小説なんて書いたことは今までありません。

 

でも、「表現をする」という行為は自由な行為であるはずで、そこには良い悪い、または、上手い下手など関係ないのです。もちろん、小説として読んで面白いと思えるものを書こうとは思っていますが。

 

長編小説を書くとなると、そこに集中する環境と時間の確保が必要になります。そこで今は、本格的な作業に入る前に読みたい本は読んでおこうと思い、机の上に平積みにされている本を読み漁っています。

 

読む本は小説ばかりでなく、学術的な本もあります。最近読んでいるのはショーペンハウエルと、パラドックスに関する本を読んでいます。

 

 

長編小説といっても、短編に分解できる部分とそうでない部分があるとは思います。ですので、そのうちの何編か、あるいは自分の近況についてを軸にこのブログを続けたいと思います。

 

 

という訳で、気楽に更新はしていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。

近況と、「文章を書く」行為を通じて発見した自分

こんばんは、岸野です。

 

今回はいつもとは趣向を変えまして、近況報告という形で記事を書きたいと思います。と言いますのは、先週か先々週を機に、あれほどせっせと毎日のように続いていた記事の更新がぱたりと止んでしまい、疑問に思う方も数人はいるかと思ったので、今回久しぶりに近況記事を書こうと思いました。

 

まず、僕自身の体調が優れなかったことが記事を更新できなかった大きな理由です。

 

先々週のことでしょうか。僕は、毎日のように夢を見るようになりました。今年の始めから睡眠導入剤の使用を始めて以来、夢を見ることが多くなってはいたのですが、それは割とぼんやりした夢で、起きてもはっきりとは思い出せない、あるいは、登場人物ぐらいしか思い出せない程度の夢でした。

 

しかし、先々週の間見ていた夢は、それまでの夢とは違い、恐ろしいほど鮮明に朝起きた時の僕の脳裏に焼き付いているような夢でした。内容はどうであれ、そのような夢を見てしまうと、一日中頭がぼんやりとしていて、活動をすることが難しくなってしまいます。食事などの最低限の生命維持の活動はしていましたが。

 

そして、その夢の鮮明さが僕を苦しめていました。何かこう書くと厨二病のような気がして、何となく気が引けるのですが、実際にはそうなのです。あまりにも夢が鮮明であると、今自分がいる場所は夢の中なのか、現実なのか本当に分からなくなります。そうなると、寝ている時でも脳は休んでいないことになるらしく、一日中ぼんやりすることになりました。

 

更に、追い打ちをかけるように、身体の節々、主に下半身の節々がギシギシと痛むようになりました。これは、睡眠不足が原因なのだと思います。恐らく僕の睡眠時間は、一般の方と比べると非常に多いとは思いますが、途切れ途切れの眠りなので、身体と脳が休まる暇が無かったのだと思います。

 

そんな訳で、僕のゴールデンウィークはいささか悪いものになってしまいました。

 

しかし、夢と現実の区別がつかなくなる体験というのは本当に不思議なものだったし、貴重なものでした。それは、睡眠という儀式を境に世界を跨ぐようなそんな感じでした。僕の意識は意識のままでずっと存在し続け、周りの環境だけが劇的に変化するのです。こんなことは今まで経験をしたことが無かったので、今思えばものすごく貴重な経験をしたと思っています。

 

また、身体的な苦痛は精神にも苦痛をもたらします。

 

このような状況が続いてしまうと、さすがに精神的に参ってしまうので、医者に相談し、深く眠れる薬を睡眠導入剤とは別に処方してもらいました。

 

その薬を飲み、次の朝を迎えた時の感動は、衝撃的でした。青天の霹靂という言葉がありますが、このような状況を表す言葉として用いたいぐらい、衝撃的でした。

 

深く眠れるということが、こんなにも素晴らしいことなのか。夢を見ないということは、こんなにも精神的な落ち着きを与えてくれるのか。朝起きて、カーテンを開けた時に差し込む光の清々しさを久しぶりに感じたような、そんな気持ちになりました。

 

その薬のおかげで、眠りをコントロール出来るようになったので、今は割と色んな事が再び出来るようになりました。ですので、今は精神的にはかなり落ち着いています。若干気になるのは、その薬のせいで、午前中をほぼ眠ったまま過ごさなければならないことです。しかし、それは身体が睡眠を求めているのだと解釈し、身体が求めるままにしています。

 

これが、体調の面での近況です。

 

 

次に、僕が記事を更新できなかった、あるいはしなかった原因として挙げられることは、自分の文章を繰り返しずっと見返していた、ということです。

 

これは先週のことです。

 

僕は今年の1月から文章を書き続け、このブログの記事も60記事を越えました。このブログを始めるにあたって、自分はどういうことを発信したいのか、また、どんな目的でブログを運営するのか、自分なりに考えてブログを始めました。

 

僕がパニック障害になったことで、自分が病気について調べたことや自分自身の体験を発信し、同じ病気で悩んでいる人と共有することが最初の理念でした。そして、今後の人生の中で、外に働きに行けなくなることのリスクを考慮して、このブログを運営することで、マネタイズの勉強をし、ゆくゆくは広告で利益を得られたらいいと思っていました。

 

だからこそ、書き始めたばかりの頃の記事は情報発信型の記事が多かったです。そして、まとめサイト的な手法を用いて文章を書き、読みやすくかつ、共感を拡げたいと思っていました。PV数はかなり気にしていましたし、読者数にもこだわっていました。

 

しかし、そのような文章を書き続けていると気付いたことがありました。それは、「別に自分が発信しなくても、他の誰かが同じことを発信している」ということです。そしてもう一つ、グーグルの検索で上位にくる記事のほとんどがSEO対策にしか目がいっていないような、記事ばかりだということです。

 

広告収入というものは、自分の運営するブログにいかに来てもらうか、がまず重要になってきます。そのための方法論はインターネット上に溢れていまして、方法論が更なる方法論を呼んでいるという有様を呈しています。

 

 

方法論というものは人を惹きつけます。

 

何故なら、未来を見通すことは誰にも出来ないからです。それならば、先に成功している人と同じ道を歩んだ方が手っ取り早くて、確実なのです。それはちょうど、自分の全く知らない土地に行って、お腹が空いたときに、吉野家に行ってしまうのと同じです。

 

 

結局僕は何が言いたいのでしょうか。

 

僕が広告収入を得たいのであれば、SEO対策を徹底的に行った文章を書き、毎日のように読者数を獲得するために動く必要があります。そして、いつの間にかこのブログで実現したいことの優先順位が変わってしまうのです。

 

確かに、広告収入を得たいとは思いましたが、僕は、やっぱりそれよりも発信がしたかったのです。そして、どうせ発信するなら自分が読んで面白いと思うモノを発信したかったのです。発信したいと思うモノは、SEO対策をして書くような文章とは真逆のモノでした。それは、1000円で吉野家の牛丼を2,3杯食べるよりは、1000円で少しいい肉を少量買って自宅で牛丼を作って食べたい、そのようなことです。

 

 

インターネットで拾ってきた本当かどうかも分からない情報をまとめ上げて、自分の記事として発信することが、僕にとっては価値がないということに気付きました。そして、そういう文章は単純に読んでいて面白くないのです。「人生をやり直す5つの視点」なんてよく書けるなぁと感心してしまいます。幾分かの皮肉を込めて。最後にいかがでしたか?なんて言われても、正直どうでもいいのです。

 

僕は、面白い文章を書きたいと思うように途中からなり始めました。出来ている出来ていないは別として。自分が面白いと思うような文章は書いていて楽しいし、文章をひねり出す行為が僕にとっては面白いものでした。

 

そして、記事を書いていく中で何かしらの賞に応募したいと思うようになり、自分の記事を割と厳しい目で見返したのです。

 

 

その作業が先週行われていました。

 

 

文章とは不思議です。記事を挙げた時には最高だと思っていても、後から読み返すとその記事は目も当てられないようなことが多くありました。書き直して、次の日にまた見返すと、また直したくなってきます。

 

その作業は幾分かの苦痛を伴いますが、楽しいものでした。子供を育てるという感覚に近いのでしょうか。僕には子供がいないので分からないのですが。

 

そのようにして、今まで書いた自分の文章を見返してみると、自分が主張したいと思うことはほとんどないということに気付きました。そして、自分でも驚くことですが、最初に掲げた理念というものが、ほとんど自分の記事の中に残っていないことが分かったのです。

 

正確に言えば、自分の主張したいと思うことは2つ3つというところでしょうか。つまり、同じ主張をあれこれと場面を変えたり、レトリックを用いたりして、繰り返しているに過ぎないのだと気付きました。その繰り返される主張は、決して僕が意図して出したものではありません。それは帰納法的に発見されたものです。

 

それに気付いたとき、何もむやみやたらと毎日記事を更新しなくても良いというところに僕の気持ちは落ち着きました。毎日書き続けていくと、確実に自分の中の何か、欲のようなものがすり減っていきます。やはり、書きたいときに書くことが一番なのかもしれません。眠りたいときに眠ることが一番良いのと同じです。見る人によっては甘えであると見なされるかもしれませんが。

 

まずは「書きたい」と思う気持ちを最も大切にしなければならない。僕の欲を擦り減らすことが一番良くないと思ったのです。どうやらその欲は、こんこんと湧き出るような泉のようなものではなく、岩の隙間から流れ落ちるような水を、透明なコップに溜めるようなものみたいです。

 

恐らく、一人の人間が主張したいと心から願うモノはごく僅かなのです。そして、主張したいと躍起にならなくても、ある程度の慣れがあれば自然に出てくるモノなのではないでしょうか。 

 

 

このような訳で、記事の更新に間が空いたのです。そして、これからも多少の違いはあれど間は空くと思います。

 

しかし、記事を更新しなくても僕は何かしらの形で毎日文章を書いています。それはお見せできるようなものでは無いので、記事としては挙げないだけです。

 

 

以上、長々と綴ってきましたが、こんなわけで、最近僕の内的なものに変化が色々訪れました。

 

今回は久しぶりに近況という形で文章を書いてみましたが、これはこれで書いていて気持ちがいいし、自分という人間の確認作業にもなります。

 

 

頻繁な更新は無くなるかと思いますが、ブログ自身は気長に続けていくので、これからもよろしくお願いします。

気の済むまで歩けばいい

僕は蓮根の皮を剥いていた。

 

蓮根の皮を包丁で剥くことは、意外と厄介な作業だ。少し手も痛くなる。無駄な力が入っているのだろう。

 

その痛みと共に、僕はふと思った。

 

 

僕は歩くようになったな、と。

 

 

もしかしたら、パニック障害を患ったことがきっかけでよく歩くようになったのかもしれない。

  

歩くことは元々嫌いではなかったが、例えば駅前に用事がある時なんかは、自転車で行ったりしていた。時間的なことを考えるともちろん、自転車の方が徒歩よりも早く目的地に着くことが出来る。そしてなるべく早く用事を終わらせ、自分の時間をなるべく多く確保しようとしていた。僕は、圧倒的なインドア派なので、家にいることが好きなのだ。

 

ところが、パニック障害になってからというもの、特に用事が無ければ外に出なくてもいい時間が、以前に比べて圧倒的に増えた。パニック障害になったばかりの頃は、外に出ることが出来ないほど衰弱していた。しかし、病気が少しずつ落ち着いてくると、今度は家の中にばかりいると、逆に衰弱していくような気がしてならないのだ。特に精神面において。

 

フィジカルな面において、衰弱していくことは疑いようがない事実である。当然のことながら、人間の身体は動かないと鈍っていく。太るというよりも、体のあちこちが動かなくなっていくのだ。機械と全く同じである。動かさないままでいた機械を、急に動かそうとすれば、大体の確率でその機械は壊れる。だから、長く動かさないままでいた機械に必要なことは、点検であり、油差しであり、試運転だ。これらのことは、そのまま人間にも当てはまる。鈍った体に必要なのは、点検であり、油差しであり、試運転なのだ。

 

僕は、朝起きた後と、夜寝る前に必ず身体の点検をする。そして、痛みを感じている部分があれば、そこをケアする。まぁ、大抵はどこかが痛い。今は圧倒的に腰が痛い。座っている時間が以前に比べて増えたからだ。そして、その点検とケアが済めば、特に用事が無くても、気が向いたときに1時間から2時間は歩くようにしている。自転車にはほとんど乗らなくなった。

 

 

僕にとっては、外に出る瞬間が、一日のうちで最も気持ちの良い瞬間だ。どんなに曇っていても、そして、激しすぎない程の雨が降っていても、最も気持ちが良い。家の玄関を開けて僕の目に飛び込んでくる世界は、全ての明かりを消した部屋よりも明るいのだから。玄関の電気を消す瞬間から、扉を開ける瞬間までの時間が、とてももどかしく感じてしまうのは、僕だけなのだろうか。

 

 

そして、外に出て空気を肺いっぱいに吸い込む。身体にまとわりつくような湿度の高い日でも、部屋の空気よりは全然ましなのだ。いや、むしろ、その一般的には不快であろう空気でも、肺いっぱいに吸い込みたいのだ。そして、僕は外に出ていけるのだということを身体全体で思い切り受け止め、そして感じる。これは、病気にならなければわからない感覚だと思う。

 

夜の空気だって同じだ。部屋の暗さと、夜の暗さは全く異なる。部屋の暗さは停止しているのに対して、夜の暗さは進んでいるのだ。だから、夜の暗さの方が好きだ。夜の世界と、昼の世界は全くの別物である。僕が部屋にいる間に、僕の部屋だけがいつの間にか違う世界へ移動してしまったような、そんな感じに近い。

 

 

歩くと、それに連動して、思考がドライブしていく。

 

 

僕は、歩くことによって色々な発見をする。外に出る時、一切音楽を聴かなくなった。何となくもったいない気がしてきたのだ。一昔前は、ipodが無ければ生きていけないとさえ思っていたのに。周囲をよく観察したり、自分の内面に目を向けることには、音楽を聴くという行為はどうも適していないらしい。

 

 

周りを見渡すと面白いことが毎日のように起こっている。

 

 

思えば、僕たち人間は全てのモノを頭に入れて解釈するわけでは決してない。ある程度の情報を頭に入れて、そこに適しているであろうモノを勝手に予測していることが多い。細かい部分を割と見落としたりしているのだ。例えば、会話でこういうことが起こる。一字一句に集中すると、それだけで人間の脳は疲れてしまう。脳は省エネを好むので、ある程度のロジックが組み上がれば、自動的に話の内容を推測する。だから、似ている漢字があったら間違える人が多い。よくよく集中して、話を聞いたり、周りを見渡すと面白いものに気付くことができる。

 

つい先日のことなのだが、近所の花屋にそれはそれは立派な剃り込みが入った、金ブレスの似合うおっさんが花屋でバラを眺めていた。これは極端な例であるが、こういった類のことは、日常で頻繁に起きているのである。でも、別にこのおっさんが花屋にいても何も問題は無いのだ。どちらかと言えば、それを面白いと感じてしまう僕のモノの見方が変なのかもしれない。

 

 

 

そして、それこそが、非日常の扉が現れるきっかけなのである。

 

 

そして、ドライブする思考はやがて内側に向いていく。

 

 

主に外界で起こったことを起点として、ああでもない、こうでもないと考えをこねくり回すのだ。僕にとって、その作業は一つの救いになっているような気がする。なぜなら、停滞していた自分の思考をドライブさせると、心が軽くなるからだ。心が軽くなれば、部屋の中でも落ち着くことが出来る。

 

 

 

 

雨上がりの夜は必ずと言っていいほど、外を歩く。それも深夜の時間帯に。

 

 

僕の住んでいるところは、いわゆるベッドタウンと呼ばれる街だ。深夜になると、街全体が寝静まる。そうすると、小さな音が耳に入ってくるようになる。木の葉に付着した雫が地面に落ちる音。遠くから聞こえる水量が増えた川の流れる音。そして、たまに通る車が残す飛沫の残響音。どれも、僕にとっては心地の良いものだ。

 

雨上がりの夜の匂いは、緑の匂いを運んでくれる。そして、雫は街灯を反射し、様々な色に木々を装飾する。風が吹くと、多くの雫が地面に落ち、様々な音と、ほんのわずかの飛沫をあげる。こんな風にして、雨上がりの夜の世界は、不思議なほどぼんやりしている世界なのだ。視覚的にも、聴覚的にも、嗅覚的にも。

 

 

この「ぼんやりさ」が、僕にとっては癒しになっているのかもしれない。

 

 

以前は何でもかんでも、決裁を急ぎ過ぎていたような気がする。白黒はっきりさせることが絶対的なことのような気がして、中途半端はダメであると決めつけていたような気がする。その中途半端さが、どの角度から見たモノなのかを考えもせずに。

 

 

 

 

そして、夜の世界は思考をさらにドライブさせてくれる。

 

 

恐らく、これは視覚的なことが原因になっているんじゃないかと思う。夜は、特に雨上がりの夜は、昼に比べて視界が圧倒的に悪い。そうすると、周りのモノに注意がいかなくなる。すると、自然と自分の内側に注意がいくようになり、思考のスピードが昼に比べて速くなるのだ。また、思考がドライブすればするほど頭が火照ってくるので、それを冷ますという意味でも、夜はうってつけのような気がする。

 

 

 

そして、歩くことに満足した僕は、夜の世界から、自分の部屋へと戻る。真っ暗な自分の部屋に入り、灯りを点ける瞬間が好きだ。もちろん白熱灯じゃなければダメだ。僕は一人暮らしだが、灯りを点けると、何か暖かいものに迎えられているような気がする。まるで、子供の頃家に帰れば、母親が「おかえり」と言ってくれたように。不思議なものだ。あんなに重かった部屋内の空気が、夜の世界から帰ると親しみを感じてしまうのだから。

 

 

 

歩くことには、喜びが満ちていると思う。

 

 

 

でも、もし僕が病気にかからなかったら、このことには気付かなかっただろう 。逆に、もしかしたら、僕は病気のせいで頭が少し変になっているのかもしれない。

 

 

でも、それはそれでいいと思う。

 

 

なぜなら、僕は今、自分が気持ちいいと思うモノ、追求したいと思うモノに素直になれていると感じているからだ。

 

早く社会復帰が出来れば、これに越したことはない。でも、僕は歩くことによって思考をドライブさせ、自分の気持ちに素直に従うということが、どれほど素晴らしいことかを、学ばせてもらっている気がする。

 

 

 

だから、今しばらくは焦らないで、歩くぐらいの速度で生きたいと思う。

 

僕には蓮根の皮だって、満足のいくスピードで剥けないのだから。

ある日の煙草とエゴ

「なんていうかさ、周りを見るとエゴだらけだよな。この世界って。」

 

 

友人のK君はそう言った。僕が大学に通っていた時の、ある日のことだ。

 

 

「すっからかんの頭を懸命に振って出てきた知識をひけらかすだけひけらかして、自分はいかに勉強しているかを見せることが大好物な奴が大勢いる。そのくせ奴らは群れることが大好きなんだ。ハイエナのようにね。きっと不安になるんだろうな。自分は何一つ本物と言えるものを持っていないからさ。」

 

 

K君は皮肉たっぷりに言い放った。でも、そんな彼の表情は少し憂鬱そうだった。

 

「俺だってエゴの塊のような人間だよ。俺もあいつらと同じだと思うと吐き気がするね。だから、俺は自分の時間を誰よりも価値的に使って、決して群れないように努力しているんだ。」

 

K君は大学時代に、風俗・エロゲーパチスロと人間の欲望の産物の極みとも言える娯楽に真剣に取り組んでいた。まるで、居合切りをする侍のように。でも、彼は自身の哲学というモノを持っていたし、少なくとも彼と話していて退屈だということは無かった。

 

「よく見てみろよ、ゆーすけ。このエロゲー、感動しないか?涙なしには見られない作品じゃないか。」

 

K君は目の前にあるパソコンを指さす。K君はエロゲーのことになると熱くなる。まるで、クラシック音楽の素晴らしさを熱心に語るかのように。

 

 「エロゲーをバカに出来ないよ。そりゃあ駄作もあるさ。抜ければ良いという作品もある。何せ資本主義だからね。あらゆる欲望に応える義務があるのさ。でも、良作は俺に問いかけてくるんだ。お前にとって生きるとはなんぞや、ってね。」

 

 K君はここまで話すと煙草に火を点けた。そして一息に煙を吸い込み一気に吐き出す。辺り一面が靄で包まれた。僕も煙草に火を点ける。

 

 「まぁ、確かに君のいう事も分かるよ。映画でも本でも、哲学を持った作品が良作とされるからね。」

 

 「なぁ、ゆーすけ。俺は、娯楽向けの文化を否定するつもりなどない。ただね、俺は意味のあることだけに身を晒していたいんだ。」

 

 「でも、君にとっての意味のあることは他の人にとって意味の無いことかもしれないよ。絶対的に意味のあるものなんてあるのかな?」

 

 僕が疑問を問いかけると、K君は黙り込んだ。頭の中で適切な言葉を探しているのだろう。言葉を間違えれば、自分の考えを誤って捉えられてしまう。歯車は狂わすわけにはいかない。出だしが肝心なのだ。そうでなければ、最後は取り返しがつかなくなることだってある。

 

 

長い沈黙が続いた。

 

 

K君の持っている煙草の灰が床に落ちる。煙は一条の道筋となって天井に昇っていく。テーブルの上には飲みかけのビールとワイン。それから、食べかけのチーズが散在していて、溢れんばかりの吸い殻が入っている灰皿がある。ワインの瓶の口からは甘ったるい匂いが漂ってきて、チーズのすえた匂い、煙草の匂いと混ざり合う。キッチンには洗いかけの皿が積み上げられ、コンロの上にはいつ作られたのか分からない味噌汁の鍋が置いてある。それらの匂いが混ざり合って、僕の鼻孔を通り脳を刺激する。

 

間違いなく、ここは一つの生活が存在している場所だ。文化やら、哲学を語るのにはうってつけの場所だ。いつでもその匂いを頼りに、空想から帰ってこられるから。

 

 

K君はなおも口を開こうとしない。

 

 

目の前にあるパソコンの中で、同じ場面が繰り返し流れている。K君が称賛してやまないエロゲーのオープニング画面だ。この空間を支配している沈黙に不釣り合いなほど明るく画面の中の少女は歌っている。この少女にとってはこちらの世界で起きていることは無関係なのだ。

 

 

「人と比べる事って意味があることなのか?」

 

 

唐突にK君は口を開いた。

 

 

「意味があるかどうかって誰が決めるんだ?絵の中で磔にされている人か?それとも、沙羅双樹の木の下で静かに微笑む人か?なるほど。大多数の人にとっては意味のあることを、彼らは決めたのかもしれないな。」

 

 K君は二本目の煙草に火を点けた。今度はゆっくりと煙を吸い込み、同じ速度で吐き出した。まるで、自分を落ち着かせるように。

 

 「彼らは素晴らしい人物なのだろう。それは疑いようもない事実だろうね。でも、彼らが見た世界が俺の見た世界と一緒だという保証はどこにあるんだ?彼らは俺たちみたいに、学食で安いカレーを食べて、あくびを噛み殺しながら講義を受けているのか?違うだろう。世界はその人だけのものだ。あくまでね。」

 

 「あのカレーには、僕も参ってしまうな。ビーフなんて名前がついているけど、ちっとも肉なんて入っていないんだものな。でも、パサパサのパンよりはましな気がするけどね。」

 

 「ゆーすけもそう思うだろう。俺もそう思う。カレーの方がましさ。そして俺の世界ではカレーの方が、パンよりも価値がある。結局、意味があるかどうか決めるのは――」

 

 K君は突然言葉を切り上げた。言葉は引きちぎられ、重要な部分を失った言葉は当てもなく空間をフラフラ漂うことになった。そしてK君は、いかにも残念そうな、そして皮肉めいた笑みを浮かべた。僕にはその表情がよく見えた。そして、K君の表情の意味も分かった。

 

 

K君は自分で認めてしまったのだ。

 

 

結局、意味を決めるのは自分自身であり、それこそがエゴの正体であると。そして自分は、自分が揶揄した人間たちと何も変わらないということを。

  

相変わらずパソコンの画面の中では、変わることなく少女が歌っている。きっとこの少女は僕たちが死んで、僕たちの子供が死んでも歌い続けるのだろう。僕は煙草を吸う。この煙草は5分後には消えて無くなっているんだろうな。そんなことを思っていた。

 

K君は煙草を持った片方の手のひらで器用に顔を覆っていた。K君は全く動こうとはしない。まるで彫像のように。そして火の点いた煙草がジリジリと短くなってゆく。

 

僕たちは、こうして何本の煙草を無駄にしたのだろうか。煙草だって、こんな風に吸われないまま使い捨てられていくのは不本意なことだと思っているに違いない。しかし、仕方が無いのだ。いくら不本意だと思っても、意思表示が出来なければ何も解決しない。当たり前のことなのだが、煙草には口が無い。そう思えば、意思表示が出来る口を持つぼくたちはいくらかマシのように思えた。

 

 

「ゆーすけ、駅前に行かないか?」

 

「いいね。善は急げだ。」

 

K君が着替えている間、僕は外で待っていた。すっかり日が落ち、辺りには静寂が漂っていた。僕は煙草に火を点け、煙を吸い込む。誰かが山で吸う煙草は美味いと言っていた。空気が美味いから。でも、煙草は煙草だ。美味いと思ったことは無い。K君の部屋で吸う煙草も、外で吸う煙草も同じ味だ。だから、きっと富士山の上で吸っても同じ味なのだろう。

 

「お待たせ、さぁ後ろに乗れよ。キャデラックのリムジンだぜ。」

 

僕はヘルメットを被り、バイクに乗る。僕はバイクが好きだ。バイクはスリルに満ちていた。もし道を曲がる時に手を離したら、バイクから投げ出され大怪我を負うか、最悪の場合死んでしまうことになるのだろう。ジェットコースターに乗ってスリルを味わいたいのなら、バイクに乗ればいいのだ。なぜか僕はジェットコースターは苦手なのだが。

 

15分ほどで駅前に着き、駐車場にバイクを停める。

 

駅前の繁華街は活気で満ちていた。昼間とは違う種類の活気だ。幾分か妖しさを含んでいて、危険な匂いが微かに漂よっている。

 

金髪でスーツ姿のキャッチが盛んに声を張り上げている。ラフな格好をした中国人の女性が、しきりにマッサージに誘いかける。酔っぱらったサラリーマンの団体が道の真ん中で騒いでいた。まるで、自分たちが世界で一番偉いのだと主張するかのように。

 

「いいよな。この辺は。何となく安心するよな。」

 

K君と僕はコンビニでビールを買い、それを飲みながら人の動きを見ていた。それは、僕たちにとってささやかな楽しみでもあった。

 

「何がいいって、欲望丸出しの人間を見られるからだよな。なぁ、ゆーすけ、あいつらを見てみろよ。きっと昼はガラス張りのオフィスで働いていて、PDCAだの難しい言葉を使いながらビジネスしてるんだろうな。でも、ここでは欲望丸出しだ。酒を好きなだけ飲んで、キャバクラに行って、その後は抜かれるのさ。素直な世界だよ、ここは。本当にさ。」

 

人々は僕らの前をただ通り過ぎていく。この人たちにとって、僕たちはその辺に落ちている煙草の吸殻と変わらない。僕たちがただ口を閉じてさえいれば。

 

「やっぱり安心するよ、本当に。みんな欲望の塊じゃないか。そしてそれを隠す必要がここでは無い。ここには誰も知っている奴はいないけれど、今この時はみんな仲間のような気がするな。そして、ああ、おれは孤独じゃないんだ、って思えるよ。」

 

そうなのだ、僕たちは不安だったのだ。僕たちはエゴ丸出しの人間だ。昼に大学で出会う人間たちは、僕たちとは全然違ってエゴなんか持っていないのかもしれない。おかしいのは僕たちなのかもしれない。そんな不安に襲われる時があった。でも、この場所にいると、みんな同じなんだと安心出来る。一人一人が大きなエゴの塊を持って生きているのだと。

 

僕たちはとりとめのない会話をする。夜に行き交う人々を見ながら。そこに自分自身を投影しながら。

 

 

「じゃ、俺はそろそろ行くわ。」

 

「いつものところに行くんだね?」

 

「あぁ。俺を待っている人がいるからな。じゃあ、ゆーすけ、また明日学校でな。」

 

そう言い残しK君は繁華街のネオンの中へ消えていった。K君の姿はすぐに他の人たちと混じり、判別が出来なくなった。こういった夜を過ごした後、彼は必ず風俗へ行って、お気に入りの子を指名する。そして、内に溜まっているものを吐き出すのだ。

 

僕は電車に乗り、持っていた本を開いた。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」。あのゲーテだって悩んでいるのだから、僕たちだって悩んでいいのだ。若者が持つある特有の満ち溢れるエネルギーは、いつの時代も人を悩ましていたに違いない。

 

適切な処置をしなければ、そのエネルギーはやり場を失って暴走する。そして、そのまま僕たちの身体を蝕んでいく。僕たちは優秀な医者であり、同時に優秀な患者でなければならない。

 

そんなことを思いながら歩き、僕は自宅へと帰った。身体にまとわりついた匂いを落とすためシャワーを浴び、すぐにベッドに潜り込む。今日は煙草を吸い過ぎた。やがて意識が薄れていく。

 

翌日、僕はいつもの通り大学へ行く。

 

周りを見渡すと、昨日K君が言っていたような人間が多いとは思った。でも、どんなにエゴを憎んだところで、僕も同じ一緒くたな人間なのだ。

 

それでも、僕はやはり意味のあることをしたいと思い続けていた気がする。K君のように。

 

 

いつもの喫煙所でK君と出会う。

 

K君は溌剌としていた。K君は思考の海に深く潜ってもすぐに帰ってくることが出来る、類まれなる人物だ。そこがK君の魅力の一つである。

 

「おう、ゆーすけ。昨日は実にハッピーな夜を過ごしたな。」

 

この調子である。きっと、思い切り溜まっていたものを吐き出したに違いない。

 

 「今日は新しいエロゲーの発売日でな。俺はすぐに行かなければならないんだよ。という訳で、じゃな。」

 

 K君は忙しない様子で煙草をもみ消し、走り出していった。K君の残した煙草の火は完全には消えておらず、灰皿の中で燻っていた。まるで、僕たちの不満を表しているかのように。

 

燻っていても煙草は煙草だ。そこに疑いの余地はない。そして、燻っていても僕たちは僕たちなのだ。何も変わることなく日々は続いていく。

  

僕は一人残り、煙をゆっくりと吸い、そして吐き出した。煙は雲一つ無い青空へ吸い込まれていった。煙は、すぐに他の空気と混ざり合い、やがて同化した。煙は、自分が煙であると頑なには主張しなかった。

 

そして、僕は自分の煙草を丁寧にもみ消し、次の講義が行われる教室へと歩いて行った。

 

 

こうして僕たちは、今日も生きてゆく。

石ころのような非日常

心療内科の待合室は水を打ったように静かだ。

 

 

聞こえてくるのは受付の女性同士の話し声と、コピー機が作動する音だけだ。

 

 

個人病院の待合室は大抵静かなものであるが、心療内科の静けさは少し趣が違っているような気がする。それもそのはずだ。ここにいる患者は何かしら心の病気を抱えているのだから。お互いがお互いに干渉せず、何となく自分の殻に閉じこもっているような人が多い気がする。

 

僕もそんな患者の一人である。基本的には自分の領域にそう易々とは入ってきて欲しくないとは思っている。

 

 

この前の受診の日は、爽やかな南風が街を吹き抜け、初夏を思わせるような暖かさに満ちた日であった。こんな日はどこかのテラスでアイスコーヒーでも飲みながら、友人と心ゆくまで語り合いたいものである。しかし、僕が向かう先はビルの中にある心療内科で、語り合う相手は医者だ。もちろん、アイスコーヒーなんて注文できない。人生は上手くいかないものだ。

 

院内は静かだ。患者数もその日はそんなに多くはなかった。皆思い思いに待ち時間を潰していた。知らない人同士が話していることは滅多にない。ここはそういう場所である。だから、大抵は静かだ。

 

そんな時の出来事である。

 

 

「あらあらあら、はいはいはい、どうもこんにちは!お母さん、診察券は持ってきたの?ほら、そのカバンのポケットに入ってないかしら?」

 

 

女性の大きな声が院内に響き渡った。その場にいた全員の視線がその女性に集まる。僕もその女性に目を向けた。どうやら親子が一緒に来院したらしい。診察を受ける方は母親で、娘さんが付き添いというところだろう。どちらも、歳をとっていた。

 

 

「あ、ここが空いてるわね。ほら、お母さん。こっちへおいでなさい。」

 

 

おいでなさい、って初めて聞いたな。それにしてもやたらと声のトーンが大きい。母娘共々耳が遠いのだろうか。しかし、受け答えをする母親の声の大きさは普通だった。娘さんの声が異常に大きいのだ。おいでなさい、って初めて聞いたな。そう思わざるを得なかった。

 

 

「いやー、今日は暑いわね、ねぇお母さん。そう言えばテレビでやっていたんだけど、ボケ防止にはトマトを一日一個食べると良いって言っていたわよ。ねぇ、お母さん。それにしても暑いわね、今日は。でも、今の季節って結構トマト高いわよね。やだわー、あたしもボケ防止しないとダメかしら、アッハッハ。」

 

 

喋りまくりである。受付の女性も患者対応をしつつ、チラチラとその娘さんに視線を向けていた。ここでの日常は静寂なのだ。非日常的なことが起こると、人は動揺し、その原因となるものを警戒し始める。まるで、ライオンを警戒するインパラのように。きっと、この受付の女性もそんな気持ちだったに違いない。

 

 

「あ、そういえば、さっき教えたスカーフの巻き方は覚えた?もう一回教えてあげるわよ。ここをこうして・・・、こうして・・・、こう。ほら!良い感じじゃない!すごく奇麗よお母さん!本当に奇麗!じゃあ、自分で出来る?さぁ、やってごらんなさい。」

 

 

ごらんなさい、って初めて聞いたな。娘さんは立ち上がり、母親にスカーフの巻き方をレクチャーし始めた。何度も母親の正面に立ち、見栄えを確認して褒める。受付の女性は、もうその娘さんの言動にくぎ付けになっていた。患者対応をしても、目線は全くブレなかった。次は一体何をこの女はしでかすのか。そんな緊張感が漂っている。しかし、ごらんなさい、って初めて聞いたな。僕はそんなことを思っていた。

 

しかし、声こそ大きいが、見ようによっては幾つになっても変わらない微笑ましい母娘の会話にも見える。いくら歳を重ねても、親子という関係は変わらない。娘さんは、病気にかかっている母親のことを本当に大事に想っているのだろう。心の病気にかかるというのは大変なことだ。じゃあ、自分が少しでも明るく振舞ってお母さんを元気づけてあげよう。そんな気持ちだったのかもしれない。

 

ああ、この娘さんは何て親想いなのだろう。声こそ少し大きいが、その振る舞いに感動を覚えた。そして、自分にはもう想うべき母親が存在していないということを思うと、少し寂しい気持ちになった。親が生きているうちは、少しでも優しくした方がいいと思う。大抵の場合は。それにしても、ごらんなさい、って初めて聞いたな。僕はそんなことを思った。

 

 

やがて僕は診察室に案内され、いつも通りの診察を受けまた待合室に戻った。しかし、もうその母娘の会話は終わっていた。娘さんも待合室にあった雑誌に視線を落としていた。待合室はいつもの静けさを取り戻していた。そして、受付の女性も安心したかのように患者対応に集中し始めていた。この空間は、日常をその手に取り戻したのである。

 

僕は、会計を済ませ、処方箋を受け取り、同じビル内にある薬局に向かう。薬局は病院と比べると賑やかだ。そこは待合室兼、簡単な診察室にもなっているのだから。薬局には科目は存在しない。心療内科にかかっている以外の人も当然やってくる。だから、心療内科特有の空気の重たさとか、その重たさを打ち消すために無理をして作られた明るさなどは存在しないのだ。言わば、ナチュラルな状態なのである。

  

僕は薬を受け取るために待っていた。そして持ってきた本に視線を落とす。今日はサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を持ってきていた。サリンジャーの表現技法は天才的だ。僕は、内容云々よりもそこが気に入っていた。しかし、頭になかなか本の内容が入ってこなかった。その時僕の心とらえていたのは「ごらんなさい」だった。僕を病院でつかまえたのは「ごらんなさい」だったのだ。

 

何となく少し皮肉めいた笑いを自分に対して向けた。そんなつもりで僕はこの本を持って来たんじゃないのにな。全く、あの母娘にはしてやられたな。でも、周りを気にせず母親を想う気持ちは本物だったな。それにしても、ごらんなさい、って初めて聞いたな。僕はそんなことを思っていた。

 

やがて僕の名前が呼ばれ、いつも通りのやり取りが薬剤師と行われる。内容は何回行っても全く変わらない。誰が担当で入ろうとも全く変わらない。かなり形式的なものだ。きっと、僕が死んでも、この形式的なものは存在し続けるんだろうな、と思った。

 

会計を済ませ、帰りの準備を整える。

 

 

「すいませーん!」

 

 

あの娘さんの声が薬局内でも響き渡った。まぁ、予想はしていたのだが薬局でも鉢合わせることになった。大抵の患者は、病院から一番近い薬局に行くので、病院で出会った患者と薬局でも出会う確率はかなり高いのだ。

 

 

「あ、お母さんここ空いてるわよ。さぁ、こっちへおいでなさい。」 

 

 

おいでなさい、って初めて聞いたな。あれ、これさっきも思ったっけか。僕は、何となくそんなことを思いながら帰り支度を終えて、席を立ち上がろうとした。

 

 

その瞬間である。 

 

 

「お母さん、そのスカーフやっぱり奇麗ね。もう一回よく見せて。ん・・・?あら・・・?お母さん、頭汚いわよ!!うわ、汚い!!本当に頭洗ってるの?この白いのなんなの?!うわー、やだ!本当に汚い!!」

 

 

衝撃の発言であった。

 

 

その一つ一つの言葉は僕の頭を見事に打ち抜いた。そして、薬局内にいる人間全員の頭も打ちぬいた。時が止まった。誰もが最初に動き出そうとはしなかった。いや、動けなかったのだ。上述したように、人は非日常的なことに遭遇すると、全力で警戒モードに入る。これは、人間の動物としての本能なのだろう。そうなると、下手に動けない。何故なら、次の行動によっては自分の命が失われるかもしれないからだ。

  

誰もが自分の耳を疑い、誰もが次に来るであろう衝撃に身を備えた。まるで、飛行機が墜落すると告げられた乗客ように。

 

どれくらいの時間が経っただろうか。いや、今この空間においては時間という概念は存在していないのかもしれない。勿論、傍から見れば一瞬の出来事だろう。でも、僕たちにとっては永遠とも思えるような時間が経ったように思えたのだ。なるほど、時間という概念は、個々人の感覚に依存するのかもしれない。

 

 

非日常というのは、その辺に転がっている石ころのように、どこにでも存在するものなのかもしれない。そして、その辺で口を開けて、僕たちを待ち構えているのだ。

  

やがて、氷が解けたように人々は動き始めた。僕も動き出し、薬局の扉を開け外に出た。そこはもう普通の世界だった。僕は帰って来たのだ。日常の世界に。

 

 

ビルの外に出ると 心地よい南風が吹いていた。そして、まだ懸命に咲いていた桜が、南風に乗って花びらとなって舞っていた。まるで、僕の帰りを祝福してくれているようだった。

 

 

 

きっとあの母親の頭にはこの花びらがついていたのかもしれないな。

 

 

 

いや、真実を追求するのはもうやめよう。僕は日常の世界に帰って来たのだから。