ひさかたの光のどけき春の日に
3月から4月にかけては季節の流れが速い気がする。
気温が上昇したり、雪が溶け緑が見え始めるからかもしれない。
しかし、この季節の流れを感じさせる一番の原因はやはり桜であると思うのだ。
桜があるだけで春を感じることが出来る。たとえまだ肌寒くても否応なしに春の到来を感じることが出来る。この時期は、卒業があったり入社入学があったりして、自分の身の回りの環境が一気に変わる季節でもある。誰でもガラリと環境が変わることは経験しているはずで、その時期には大抵桜が咲いている。人生の新たな門出を祝福してくれるかのように美しく咲く桜は、僕たちの気持ちを一新させるのに一役買っているのかもしれない。
桜は、儚い。
桜という花が自身の美しさを最大限に表現させることが出来る時間は、ほんの僅かなものだ。花が満開になってから散ってしまうまで、僅か一週間しかない。その美しさを表現するために、木は一年のほとんどを寝て過ごす。より美しく開花するためには、エネルギーが必要なのである。桜も我慢している。満を持して、自分の美しさを最大限に表現しているのだ。
この儚さがあるからこそ、桜は人気なのだろう。「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ」。百人一首でも詠まれている通り、日本においては昔から馴染みのある花だ。咲いている時ばかりではなく、散ってしまう姿も美しい。これこそ桜の醍醐味であろう。
散りゆく桜を見ていると、懐かしい思い出が優しく、しかしはっきりと僕の脳裏に蘇ってくる。
中学生の頃。真面目な僕はもの凄く真面目な友人と、落ちているエロ本を集めるのに夢中になっていた時期がある。まだインターネットも発達していなかったので、気軽に女性の裸を見る機会が無かったのである。路地という路地を歩き、公園という公園を探しまくり、沢山の本を集めた。
普通は一冊でも発見すれば、すぐに中身を見て使いまわすのが基本である。僕は少なくともそうしたかった。しかし、友人は僕の一歩先を見据えていた。
「おいゆーすけ、まだ中を見ちゃだめだ」
「何で?すぐに見てどこかにまた捨てようよ」
「お前は、全く分かっていない。一つ聞きたいんだが、この世で最も美味しいものってなんだと思う?」
僕は、友人の真意を測りかねて沈黙してしまった。
友人は、そんな僕の困惑した顔を愉しむように話を続けた。
「それはな、砂漠で飲む水だよ。渇きが何の変哲もない水をこの世で最高の飲み物に変えちまう。そう、渇きこそが必要なんだよ。」
何となく友人の言いたいことは分かったが、なぜそれがエロ本をすぐに見ないことに繋がるのかは、全く分からなかった。
「分からないのか?あの桜を見ろよ。桜は、一瞬しか咲かないだろ?桜は、そういう意味では花としての性質は未熟かもしれない。でも、その一瞬という限定されたものがあればこそ、皆が見たくもなるし、何より桜はその為にエネルギーを貯めているんだ。皆、桜を見たいという想いに一年じゅう渇かされているんだ。」
友人は熱っぽく、まるで演説をするかのような勢いで僕に訴えかけた。
「このエロ本の価値を最大限に高めるためには、渇きが必要なんだ。わかるか?ゆーすけ。」
「渇き・・・?」
「そう、渇きだ。だから、僕たちはすぐにこのエロ本を見てはいけない。満たされてしまうからだ。毎日シャトーブリアンを食ってみろよ。飽きるだろ?胸もやけるってもんだ。だから、エロ本は見つけたらすぐには見ないで、なるべく貯めよう。そして、性欲が渇きに渇いたところで見よう。想像するだけでわくわくしないか?きっとその時に見えるものは、孫悟空達が求めた天竺よりも遥かに価値があるものだと思うぜ。」
僕たちの会話が交わされた場所では、桜が優しく咲いていた。まるで、子供たちの会話を微笑ましく聞いている母親のように。
そして僕たちは、秘密の場所を設け、エロ本を大量に集めたのである。
あぁ、早く見たい。でも、まだまだ精神的な渇きが必要なんだと自分に言い聞かせながら。
そして、随分色んな意味で色々たまった頃。友人がそれはそれは発情期の雌ライオンみたいな顔をして言った。
「時は満ちたな。」
ただ単にお前が我慢できなくなったんじゃねーのか、と突っ込みたかったが、僕は彼に同調した。僕も我慢の限界だったのである。
そして学校が終わるや否や、友人と猛ダッシュでエロ本の隠してある場所へと向かった。
確かにこの気持ちならば、それはそれはもの凄く中身が良く見えるものだろう。たとえその本の中身が、セーラー服を着たややきつめのおばさんだとしても、僕たちにとっては女神がのように映るだろう。なんならその場で自慰を始めても決しておかしくはないほど、僕たちは飢えていた。
はやる気持ちを抑え、エロ本の隠し場所にしていたとある公園にたどり着いた。まるで、インディージョンズの宝が眠っている部屋の前までたどり着いた気分である。さぁ、いこう。いよいよこの冒険譚に終止符を打つ時が来た。長く、そして険しい道のりだった。
そして、僕たちはベンチの裏を覗き込んだ。
無い。手間暇かけて集めたエロ本が入っている段ボールが丸ごと無くなっていた。
僕と友人が絶句したことは言うまでもない。砂漠を歩いていて、オアシスだと思って近づいたら蜃気楼だった。きっと僕はそんな気持ちだったのだろう。
僕は率直に言って友人を恨んだ。時間を返してくれ。何より、行き場を失って暴走している飢えが抑えがたく、それは怒りという形を取って友人に向けられた。
僕はありったけの恨みを込めて、友人を睨んだ。
しかし、なんということだろう。友人は僕に微笑みを返したのである。そして、彼は言った。
「しづ心なく花ぞ散るらむ。」
僕は何も言い返せなかった。
後日、その友人は他のクラスの奴から焼き増しされたAVを渡されていた。お前の信念はどこにいったんだ、おい。
散りゆく桜はそんな青春の一ページを思い出させてくれた。
桜が舞う季節もそろそろ終わりを告げる。今年も桜は僕たちの心を大いに潤してくれた。
桜は散る間際こそ美しいのかもしれない。
そして散ってからもなお、僕たちの心に潤いを与えてくれる桜は、美しさのほかに何か力強さを僕たちに与えてくれる。
自分の役割を終えた今年の花は、来年の花にバトンを渡すべく散り、そして木はエネルギーを蓄え始める。
こうして、生命というものは受け継がれていくのかもしれない。
そして僕たちは、またきっと来年の桜を見ることに飢えに飢えて、その渇きが桜をより美しいものにしてくれるのだろう。
美しく散る桜を見ていると、友人のあの微笑みが脳裏に蘇ってくる。
「しづ心なく花ぞ散るらむ。」