パニック障害患者、まったりとブログやる

パニック障害になってしまいました。言葉遊びしてます。Twitter@lotus0083 ふぉろーみー。

気の済むまで歩けばいい

僕は蓮根の皮を剥いていた。

 

蓮根の皮を包丁で剥くことは、意外と厄介な作業だ。少し手も痛くなる。無駄な力が入っているのだろう。

 

その痛みと共に、僕はふと思った。

 

 

僕は歩くようになったな、と。

 

 

もしかしたら、パニック障害を患ったことがきっかけでよく歩くようになったのかもしれない。

  

歩くことは元々嫌いではなかったが、例えば駅前に用事がある時なんかは、自転車で行ったりしていた。時間的なことを考えるともちろん、自転車の方が徒歩よりも早く目的地に着くことが出来る。そしてなるべく早く用事を終わらせ、自分の時間をなるべく多く確保しようとしていた。僕は、圧倒的なインドア派なので、家にいることが好きなのだ。

 

ところが、パニック障害になってからというもの、特に用事が無ければ外に出なくてもいい時間が、以前に比べて圧倒的に増えた。パニック障害になったばかりの頃は、外に出ることが出来ないほど衰弱していた。しかし、病気が少しずつ落ち着いてくると、今度は家の中にばかりいると、逆に衰弱していくような気がしてならないのだ。特に精神面において。

 

フィジカルな面において、衰弱していくことは疑いようがない事実である。当然のことながら、人間の身体は動かないと鈍っていく。太るというよりも、体のあちこちが動かなくなっていくのだ。機械と全く同じである。動かさないままでいた機械を、急に動かそうとすれば、大体の確率でその機械は壊れる。だから、長く動かさないままでいた機械に必要なことは、点検であり、油差しであり、試運転だ。これらのことは、そのまま人間にも当てはまる。鈍った体に必要なのは、点検であり、油差しであり、試運転なのだ。

 

僕は、朝起きた後と、夜寝る前に必ず身体の点検をする。そして、痛みを感じている部分があれば、そこをケアする。まぁ、大抵はどこかが痛い。今は圧倒的に腰が痛い。座っている時間が以前に比べて増えたからだ。そして、その点検とケアが済めば、特に用事が無くても、気が向いたときに1時間から2時間は歩くようにしている。自転車にはほとんど乗らなくなった。

 

 

僕にとっては、外に出る瞬間が、一日のうちで最も気持ちの良い瞬間だ。どんなに曇っていても、そして、激しすぎない程の雨が降っていても、最も気持ちが良い。家の玄関を開けて僕の目に飛び込んでくる世界は、全ての明かりを消した部屋よりも明るいのだから。玄関の電気を消す瞬間から、扉を開ける瞬間までの時間が、とてももどかしく感じてしまうのは、僕だけなのだろうか。

 

 

そして、外に出て空気を肺いっぱいに吸い込む。身体にまとわりつくような湿度の高い日でも、部屋の空気よりは全然ましなのだ。いや、むしろ、その一般的には不快であろう空気でも、肺いっぱいに吸い込みたいのだ。そして、僕は外に出ていけるのだということを身体全体で思い切り受け止め、そして感じる。これは、病気にならなければわからない感覚だと思う。

 

夜の空気だって同じだ。部屋の暗さと、夜の暗さは全く異なる。部屋の暗さは停止しているのに対して、夜の暗さは進んでいるのだ。だから、夜の暗さの方が好きだ。夜の世界と、昼の世界は全くの別物である。僕が部屋にいる間に、僕の部屋だけがいつの間にか違う世界へ移動してしまったような、そんな感じに近い。

 

 

歩くと、それに連動して、思考がドライブしていく。

 

 

僕は、歩くことによって色々な発見をする。外に出る時、一切音楽を聴かなくなった。何となくもったいない気がしてきたのだ。一昔前は、ipodが無ければ生きていけないとさえ思っていたのに。周囲をよく観察したり、自分の内面に目を向けることには、音楽を聴くという行為はどうも適していないらしい。

 

 

周りを見渡すと面白いことが毎日のように起こっている。

 

 

思えば、僕たち人間は全てのモノを頭に入れて解釈するわけでは決してない。ある程度の情報を頭に入れて、そこに適しているであろうモノを勝手に予測していることが多い。細かい部分を割と見落としたりしているのだ。例えば、会話でこういうことが起こる。一字一句に集中すると、それだけで人間の脳は疲れてしまう。脳は省エネを好むので、ある程度のロジックが組み上がれば、自動的に話の内容を推測する。だから、似ている漢字があったら間違える人が多い。よくよく集中して、話を聞いたり、周りを見渡すと面白いものに気付くことができる。

 

つい先日のことなのだが、近所の花屋にそれはそれは立派な剃り込みが入った、金ブレスの似合うおっさんが花屋でバラを眺めていた。これは極端な例であるが、こういった類のことは、日常で頻繁に起きているのである。でも、別にこのおっさんが花屋にいても何も問題は無いのだ。どちらかと言えば、それを面白いと感じてしまう僕のモノの見方が変なのかもしれない。

 

 

 

そして、それこそが、非日常の扉が現れるきっかけなのである。

 

 

そして、ドライブする思考はやがて内側に向いていく。

 

 

主に外界で起こったことを起点として、ああでもない、こうでもないと考えをこねくり回すのだ。僕にとって、その作業は一つの救いになっているような気がする。なぜなら、停滞していた自分の思考をドライブさせると、心が軽くなるからだ。心が軽くなれば、部屋の中でも落ち着くことが出来る。

 

 

 

 

雨上がりの夜は必ずと言っていいほど、外を歩く。それも深夜の時間帯に。

 

 

僕の住んでいるところは、いわゆるベッドタウンと呼ばれる街だ。深夜になると、街全体が寝静まる。そうすると、小さな音が耳に入ってくるようになる。木の葉に付着した雫が地面に落ちる音。遠くから聞こえる水量が増えた川の流れる音。そして、たまに通る車が残す飛沫の残響音。どれも、僕にとっては心地の良いものだ。

 

雨上がりの夜の匂いは、緑の匂いを運んでくれる。そして、雫は街灯を反射し、様々な色に木々を装飾する。風が吹くと、多くの雫が地面に落ち、様々な音と、ほんのわずかの飛沫をあげる。こんな風にして、雨上がりの夜の世界は、不思議なほどぼんやりしている世界なのだ。視覚的にも、聴覚的にも、嗅覚的にも。

 

 

この「ぼんやりさ」が、僕にとっては癒しになっているのかもしれない。

 

 

以前は何でもかんでも、決裁を急ぎ過ぎていたような気がする。白黒はっきりさせることが絶対的なことのような気がして、中途半端はダメであると決めつけていたような気がする。その中途半端さが、どの角度から見たモノなのかを考えもせずに。

 

 

 

 

そして、夜の世界は思考をさらにドライブさせてくれる。

 

 

恐らく、これは視覚的なことが原因になっているんじゃないかと思う。夜は、特に雨上がりの夜は、昼に比べて視界が圧倒的に悪い。そうすると、周りのモノに注意がいかなくなる。すると、自然と自分の内側に注意がいくようになり、思考のスピードが昼に比べて速くなるのだ。また、思考がドライブすればするほど頭が火照ってくるので、それを冷ますという意味でも、夜はうってつけのような気がする。

 

 

 

そして、歩くことに満足した僕は、夜の世界から、自分の部屋へと戻る。真っ暗な自分の部屋に入り、灯りを点ける瞬間が好きだ。もちろん白熱灯じゃなければダメだ。僕は一人暮らしだが、灯りを点けると、何か暖かいものに迎えられているような気がする。まるで、子供の頃家に帰れば、母親が「おかえり」と言ってくれたように。不思議なものだ。あんなに重かった部屋内の空気が、夜の世界から帰ると親しみを感じてしまうのだから。

 

 

 

歩くことには、喜びが満ちていると思う。

 

 

 

でも、もし僕が病気にかからなかったら、このことには気付かなかっただろう 。逆に、もしかしたら、僕は病気のせいで頭が少し変になっているのかもしれない。

 

 

でも、それはそれでいいと思う。

 

 

なぜなら、僕は今、自分が気持ちいいと思うモノ、追求したいと思うモノに素直になれていると感じているからだ。

 

早く社会復帰が出来れば、これに越したことはない。でも、僕は歩くことによって思考をドライブさせ、自分の気持ちに素直に従うということが、どれほど素晴らしいことかを、学ばせてもらっている気がする。

 

 

 

だから、今しばらくは焦らないで、歩くぐらいの速度で生きたいと思う。

 

僕には蓮根の皮だって、満足のいくスピードで剥けないのだから。