経験則と世界の大きさ
「ねぇ、ママー。私はどうして産まれたの?」
「それはね、パパとママが愛し合ったからよ。」
「ふーん。愛し合って私が産まれたんだ?」
「そうよ、パパとママが愛し合って、神様がご褒美にあなたを授けてくれたのよ。だから、あなたはママとパパにとっての最高のギフトなのよ。」
何とも微笑ましい光景である。きっとこの会話が交わされているのは、日当たりが良い一軒家の中で、お母さんが子供を膝の上に乗っけてテラスで会話しているに違いない。その一軒家は、ごくごくありふれた造りではあるが、ささやかな幸せを感じるには十分だ。少しばかり庭とかもり、ハーブが植えてあるに違いない。この家族の楽しみは、一年に一回の家族旅行。外国に行くほどの贅沢は出来ないが、今年は子供と一緒に十分に楽しめる、ちょっと遠いサファリパークに出かけようか、そうだ、その時までに新しいカメラを奮発して買おう。なんて光景がありありと思い浮かんでくる。
大抵の人が、上のような会話からこういう情景を思い描くと思う。間違っても夜中の新宿2丁目でこのような会話が起きているとは、想像しないだろう。しかし、新宿2丁目でもこのような平和を絵に描いたような会話が交わされている可能性は十分にある。
ただ、多くの人は新宿2丁目を想像しないだろう。
それはなぜなのだろうか?
考えてみると、僕たちには、自分の経験則や今まで培ってきたイメージから物事を決めつけてしまう傾向があると思うのだ。
例えば、
「メガネをかけて七三分け⇒頭いい」
「筋肉ムキムキな人⇒ジム行ってる」
「渋谷によく行く⇒遊び人」
「覚せい剤を使う人⇒悪い人」
みたいな感じだ。しかし、上記のように何の疑問を抱かずに考えてしまうのは、ある意味もったいないことだと思う。上の例文の反例なんて考えればすぐに上がる。
「メガネをかけて七三分け⇒のびた」
「筋肉ムキムキな人⇒ラオウ」
「渋谷によく行く人⇒東幹久」
「麻薬を使う人⇒のりピー」
などなどだ。
少し頭を考えれば分かることなのに、僕たちの脳は面倒なことが基本的には嫌いなので、経験則ばかりを当てはめようとする。それはちょうど、広場に行けばエサがあると今までの経験から思い込んで、冬の寒空でも集まってくる鳩のようなものだ。そして、その経験則やイメージからかけ離れたものを見た時に、僕たちの脳は停止する。
先日のことだ。
僕は基本的にはコンビニで食べ物を買わないので、専らスーパーに行くことが多い。スーパーに行くと、家族連れも多くそこでは元気いっぱいはしゃぐ子供たちも多い。特に、平日の午後にスーパーに行くと良くこういった光景が見られる。
買い物を終え、さてそろそろ戻りますかー、って感じで店の外に出た瞬間にラインが入ってチェックをしようとした。
すると、一人のお母さんと二人の子供が仲良く店の外から出てきて、自分たちが乗ってきたであろう自転車の前で子供達がはしゃぎ始めた。そんな光景を見つつラインの返信を済ませ、その家族に目を向けると、お母さんが二人の子供を優しくたしなめつつヘルメットを被せ、チャイルドシートに子供たちを乗せていた。何とも微笑ましい光景である。
しかしこのお母さん、めちゃくちゃ美人だった。若き日の黒木瞳そっくりで、僕的にはドストライクで、いきなり僕が登場して「ダメだぞー、お母さんを困らせちゃあ。お母さんは大事にしないとだめだぞぉ。とっても奇麗なんだからな」なんて呼びかけて、そのお母さんが僕のことを少しユーモアがある人だと思ってくれて、「まぁ!ふふふ、ありがとうございます」なんて言ってくれるかもしれない。何なら、重たそうな荷物をご自宅まで持って行ってさしあげて、そのお礼に夕飯ごちそうになって、子供達からも「パパよりこのお兄さんといた方が楽しい!」なんて言われるかもしれない。困った顔をする僕と奥さん。でも、まんざらでもなさそうな顔なんかしちゃったりして。その顔には少しの陰りが・・・。
そして子供が寝静まったころ、
「遅くまですいません、今日はご馳走様でした。本当に美味しかったです。」
「気になさらないで下さい、主人は帰りがいつも遅いもので、私も楽しかったです。」
「そうなんですか・・・。では僕はこれで失礼し・・・」
「待ってください!待・・・って、下さい・・・・」
「奥さん・・・?」
すいません、僕彼女いるんでこれ以上無理です。書けません。
なんてことを妄想していたら、
「ねぇ、お母さん、何で私はヘルメットをして、お母さんはしないの?」
そんな疑問をお母さんに投げかけていた。うんうん、とっても子供らしく素直な疑問だな。きっと、お母さんも気が利いていて、かつ優しい感じの話をするんだろうな。きっと、「あなた達は、ママの大事な宝物なの。だから、もし死んじゃったらママ悲しいわ。だから、少し窮屈かもしれないけれど、我慢してくれる?」なーんて言っちゃったりして。
ふわりと微笑んだお母さん。
「それはね、お母さんの頭は石よりも固い石頭だからよ。」
僕の頭がフリーズする。
「イシヨリモカタイイシアタマダカラヨ」
子供の疑問は止まらない。
「へー。じゃあ、お母さんの頭とカボチャはどっちが固いの?」
「お母さんの頭よ。」
即答。
もう本当に、お母さんの反応が早かった。打てば響くなんてレベルでは無かったです。疾きこと風の如し。
そして、子供二人を乗せ颯爽と去って行った。
この出来事から、僕は疑問に思った。なぜ自分はこの会話を頭の中で処理するのに時間がかかったのだろうかと。
恐らく僕は、勝手にそのお母さんの返しを頭の中で組み立てていたのだ。きっとこういう風に会話が進むに違いないと勝手に予想し、そしてその予想が裏切られたからこそ、僕の頭は一瞬思考停止してしまったのだ。
和食セットを頼んで、みそ汁じゃなくて、お吸い物がついてきた。そんな感触だ。
あなたはどう思うだろうか?「和食セットなんだからみそ汁だろ!!全く、ここの店は常識がないな!!!」と考えるか、「あれ?何でお吸い物なんだろ?まぁ、お吸い物でもいいか。というより、お吸い物の方が高級感もあるしいいかも。感謝感謝。謝謝☆」と考えるか。
確かに、自分の予想したものから外れたものが出てきてしまえば、怒りが湧いてくるかもしれない。でも、少し考えて欲しい。100%自分の予想したものが出てくるなんて保証はどこにもないのだ。
パネマジと全く同じである。
自分の経験則だけで物事を判断してしまい、その経験則から外れた物を排除しようとすると、そこから先に世界は拡がっていかない。「まぁ、大抵は同じ道をみんな進むもんだよ。」なんて言っているおっさんは、実は自分の世界がいつの間にか閉じてしまっていることに気付いていないのだ。
ただ、自分の経験則から外れた物を受け入れようとするには、かなりのエネルギーを必要とする。自分の中の基準をまた再構築し直す必要があるからだ。
しかし、今どんどん世界は縮まっていて、あらゆる人との出会いが増えてきた。そんな世界で平和に生きていくためには、自分の経験則というものを客観的に見直していく必要があるのかもしれない。そして、精神疾患の患者はもっと世に認識されていいと思うのだ。そんな世界がやがて訪れてくれることを願っているし、僕たちも啓蒙する努力をしなければならないと思うのだ。
ちなみに僕は、和食セットを頼んでお吸い物が出てきたら、一旦笑顔で受け入れて、その後「お吸い物はねぇよな・・・」なんて文句を言いながら、お吸い物を飲むだろう。