パニック障害患者、まったりとブログやる

パニック障害になってしまいました。言葉遊びしてます。Twitter@lotus0083 ふぉろーみー。

そしてピッコロ大魔王は悟空を打ち抜いた

僕は自分自身を誰よりも攻撃している。

 

 

最近、そんなことをよく思う。

 

 

ブログのタイトルにもあるように、僕はパニック障害にかかってしまった。発症当時のことを思い出すと、それはそれは辛い日々を送っていたなと思う。電車にいきなり乗れなくなり、病院へ駈け込んでから今月で4ヵ月になる。発症当時と比べると圧倒的に出来ることは増えていて、自分のやりたいこともかなり出来るようになってきた。こうして毎日下らない文章を書いていても、症状が出ることは無いぐらいにまで回復した。

 

もちろん、ここまで回復できたのは薬の力が大きいことは認めざるを得ない事実だろう。やはり医学の力は大きいと実感している。と共に、自分の生活を見直したり、症状が出た時の対処法を自分なりに考えたことは、多少なりとも症状の改善に貢献しているように思われる。

 

病気というものは大変厄介なものだ。例えば、風邪をひいたと一口に言っても、考えられる原因は様々あるだろうし、ある一つの事柄だけに原因を求めるのは到底無理なことだとも思う。まして精神疾患ともなると更に話は複雑になってきて、自分の性格や周りの環境、はたまた幼少期のことまで遡って原因を追究したら、きりがないのだ。

 

 

いかに複雑かは、インターネットを見ればすぐに分かる。

 

仮に、パニック障害の原因が一つに特定できたならば、治療法の情報がこんなにもネットに溢れなかっただろうし、そもそも、僕もパニック障害の対処法なんて書こうとも思わない。

 

もしもパニック障害が、インフルエンザみたいに特定のウイルスを殺すことで治るものなら、どんなに楽なことだろうと思う。でも、実際はそうはいかなくて、何十年もこの病気と闘っている人が実際にはたくさんいるし、そもそも「完治」という言葉さえも存在しない病気なのだ。

 

しかし、「病気」である以上必ず原因は存在する。それは、一次元や二次元で測れるほど単純ではないだろう。もしかしたら十個の座標軸を定めて考えなければ、その原因は特定できないものなのかもしれない。

 

 

手始めに、生活習慣とか、自分の身体的な特徴は抜きにして自分の心を覗いてみよう。少なくともそれは、無暗に妖しい治療法を信じるよりも有効なことだと思う。

 

自分の心を覗くというのは難しい。それは雲を掴むような話で、仮に、自分の心の中に何かしらの感情が存在しているのを発見したとしても、その感情がいつ頃から存在していたのかを思い出すのはかなり難しいことであるし、そもそも自分の姿を鏡に映しているようで、あまり気乗りがしない。

 

苦手なカラオケに無理やり誘われて、周りの空気に全くついて行けず、自分の惨めさを噛みしめることに似ている。周りが賑やかになればなるほど、自分の姿が冷静に映し出されてしまう気がした。その夜、涙で枕が濡れたことは言うまでもない。

 

 

さて、自分の心を覗いてみた時に存在していたのは、「自分を否定している自分」だ。理想とのギャップが存在すると、今の自分を否定する方向に思考が行ってしまう。まるで泥沼に足を取られるようで、一度はまるとなかなか抜け出せない。そして、やがて泥沼は底なし沼へと変貌を遂げる。

 

しかし、こういう理想と現実とのギャップで悩むからこそ人は自分のいる位置を把握できるのだろうし、その負の感情を糧として努力をすることによって、更なる成長を遂げることも可能になるということも否定できない。

 

 

中学校の頃、いかに円周率を言えるかが格好良さにつながると考えていた僕は、必死に200桁ぐらいまで円周率を暗記したことがある。円周率が覚えられない。何度も悩んだものだ。こうやって努力するのも、愛するユミちゃんの為。僕、君の為なら死ねる。「3.14159265359..」「さあ、いいよ行こう急にロングでゴマさんごっきゅん・・・」。こんな語呂合わせを作りぶつぶつ家で唱えていたが、親はさぞかし心配したであろう。もう、ユミちゃんしか見えない。

 

そんな猛烈な努力が出来たのも、理想の自分と今の自分の間のギャップに苦しんだからだ。苦しみという負の感情が無ければ、全く努力なんてしなかっただろう。

 

ちなみに、後日ユミちゃんの前で円周率を披露したら、「で?何?」と言われ、僕は悲しくなった。いや、もしかしたら興奮したのかもしれない。こんなに努力したのに一蹴するユミちゃん、そして詰られる僕。このシチュエーションに興奮しないで、一体何に興奮すれば良いのだろうか?教えてアルムのモミの木よ。

 

 

さて、生き聖人のように真面目な僕のように、自分の内側に負の感情が向けられるのならまだ良いが、他人への攻撃につながる場合もある。自分の存在意義を確かめるために他人を攻撃して、相手を陥れた時に自分の存在意義が明らかになったような気がするのだ。

 

自分の存在意義を確かめたいがために、その行為はどんどんエスカレートしていって、ブレーキの利かないトロッコのように暴走し始める。頼まれてもいないのに自分と真っ向から反対する意見を、もぐら叩きのように叩きに叩き、そして満足する。叩かないと、自分の存在意義を確立できないのだ。

 

 

僕は、自分自身に対する攻撃が過剰になっている気がする。世間から見た自分と、自分から見る自分との間にギャップを感じ、いわゆる一般常識に自分を従わせようとしていた。

 

常識とは厄介な概念で、実際に編集されたことも無いのに、暗黙の了解のもとで得られた集合知のようなものである。

 

簡単に言えば、アイドルはうんこをしない、魔貫光殺砲ラディッツと共に悟空を殺したピッコロは、最善の判断をしたヒーローである、そんな感じだ。

 

でも、アイドルだって人間なんだからうんこはするだろうし、ピッコロはもしかしたら本当に悟空を殺したかったのかもしれない。だってピッコロは、「ざまぁみやがれ・・・。ハァハァ・・・。」なんて捨て台詞まで吐いている。ドイヒーだ。いっそ清々しいものさえ感じる。

 

 

 

そうなのだ。常識とか、正義とかは相対的なものであって、時代と共に、場所と共に変化するものなのだ。

 

もしかしたら、今自分自身を攻撃している材料の常識なんて、数年後から見れば「チョベリバ」なんて時代遅れの言葉のようなものになっているかもしれない。放置少女にハマりまくっている僕はチョベリバだ。

 

自分で自分を攻撃しているものなんて、本当は実体の無い幽霊のようなものなのかもしれない。自分で勝手に想像した敵に過剰に自分を攻撃させ、どんどん傷ついていくなんて、とんだお笑い草だ。

 

 

 そうやって笑えるようになるまでには時間がかかるかもしれないが、少しずつ進んでいこう。

 

 

 

そうだ。自分自身を攻撃している自分を発見したら、その敵を見極めて打ち抜こう。

 

 

 

悟空を貫いた魔貫光殺砲で打ち抜いてやればいいのだ。ピッコロ大魔王のように。

 

 

 

そして、言い捨てよう。

 

 

はぁはぁ、ざまぁみやがれ・・・!