パニック障害患者、まったりとブログやる

パニック障害になってしまいました。言葉遊びしてます。Twitter@lotus0083 ふぉろーみー。

幸福の底なし沼

つい先日のことだ。

 

割と長い付き合いを持つ友人と久しぶりに会った。

 

思えばパニック障害を患ってからというもの、外で友人と会うなんて全く出来なかった。それが、友人と会うまでに回復出来た。まだ、服薬は当分の間必要なものの、一歩一歩回復出来ている自分がいるというのを再認識出来て、とても幸福感に満ちた時間を送ることが出来た。

 

やはり、友人と会うのはとても良いことだ。気兼ねなく色んなことを話し、特に物事を論理立てて話をしなくても良いということも非常に気楽である。何よりも、話を聞いて新しい視点を得られたりだとか、自分一人では気付くことの出来なかった自分の考えを発見出来ることが純粋に嬉しい。

 

 

自分の友人に会えることがこんなにも自分を満ち足りた気持ちにしてくれることなど あったであろうか、と思うほどその時間は幸福感で満ちていた。

 

恐らく、病気を患わなければこんな気持ちにはなれなかったっだろう。

 

 

 

病気と闘うということは、孤独な作業だ。

 

 

 

いつもぽっかりと口を開けて待っている、落とし穴に落ちないように自分を制御しながら生き抜いていかなければならない。その落とし穴に落ちたら、這い上がってくるのには大分時間がかかる。しかも、落ちてみるまでは、その穴の深さは分からないのだから厄介である。

 

しかし、この感覚を日々持っているからこそ、こうした友人との時間に幸せを感じられるというのもまた事実だと思う。そう考えれば、病気も悪いものではないと、ほんの少しだけ思える。

 

 

 

幸せの尺度というのは、個々人によって変わる。

 

 

 

病気になってみないと健康の有難さに気付けないし、貧乏にならないとお金の有難さは分からない。人間とは、本当に厄介な生き物だと思う。そして、僕たちは自分が定義した幸せに向かって日々突き進んでいる。多分、それは死ぬまで終わりを迎えることは無いのだろう。

 

どんなに満たされても、自分が望む限り幸せというのは訪れない、そんな風に思えるのだ。

 

 

幸せとは何なのだろうか?

 

 

今、盛んに叫ばれている幸福というものはかなりの部分で相対的なものに過ぎない気がする。周りに人がいればいるほど、その幸福というものは音を立てずに形を崩していく。そう考えると、人が多い東京は幸福の底なし沼のようだ。

 

 

しかし、絶対的な幸福など存在するのだろうか。

 

 

あるとすれば、今の現状に大いに満足することなのだろうと思う。

 

そんなことは、本当に可能なのだろうか。いや、自分は幸せであると豪語する人は意外と多い。でも、心の底を覗いたときにやはり満たされない気持ちを抱えていない人など、ほとんどいないと思う。それほど、満たされるというのは難しいのだ。

 

 

友人と会った数日後のことだ。

 

 

このブログでもたまに登場する友人のK君から連絡が入った。特に用事という用事も無いのだが、用事もないのに話せる友人というのは意外に少ないので、いい友人だ。

 

 

思えばK君は大学時代、楽しそうであった。

 

パチスロ、風俗、エロゲーという人間の欲望の塊の産物に毎日全力投球していた。たとえ、お気に入りの風俗嬢の指名が時間の都合で取れなかったとしても、そのことにいちいち腹を立てるのではなく、事が終わった後はいつでも爽やかな笑顔を浮かべていた。

 

パチスロで負けたとしても、彼の爽やかな笑顔は消えない。

 

考えれば不思議な話である。誰だって、楽しみにしていた風俗嬢との出会いを妨げられれば怒りが湧くと思うし、パチスロで負けたら、烈火のごとくマグマが煮えたぎるがごとく、怒りを露わにするものだと思う。

 

 

しかし、僕はK君が怒っている姿を見たことが無かったことに今更ながら気付いた。

 

そこで、何故K君は大学時代あんなにも穏やかな微笑みを浮かべられたのか聞いてみることにした。留年までしたくせに。

 

 

「君ってさ、かなり率直に言って大学時代かなり退廃した生活を送っていたよな?でも、僕は君があまり腹を立てているところを見たことがないんだよ。君は一体なぜあんなにも、穏やかでいられたんだ?」

 

 

長い沈黙がその場を支配する。K君の吐息だけが聞こえてくる。

 

 

「なぁ、ゆーすけ。君は大いなる勘違いをしている。例えていうなら、昔の神学者たちが太陽が地球を中心にして回っていたと信じていたようにさ。」

 

 

相変わらずK君の例えは言い得て妙である。

 

 

「俺はいつだって腹を立てていたんだよ。」

 

 

僕は、言葉を失うほどの衝撃を受けた。腹を立てていた?

 

 

「じゃあ、君はポーカーフェースだったということか?そりゃカジノで一儲けした方が、いい人生を送れたかもしれないね。」

 

 

「いや、ポーカーフェースなんかじゃない。俺は明らかに腹を立てていた。でも、その対象は自分自身に対してだったのさ。誰だって、完璧な人間はいない。もし、大した理由もなく磔にされたら、ほとんどの人間は腹を立てるさ。『これで罪は赦される』なんて考えられる人間は、ほとんどいないに等しいだろう。」

 

 

「僕たちは形而上的な存在ではない。」

 

 

「勘違いしてほしくないのは、俺は退廃的な生活から抜け出せなかったことに腹を立てたんじゃない。つまらない授業なんて、念仏に等しいよ。あれだったら、パチプロのメルマガを読んでいたほうがよっぽど役に立つね。俺が死んだときには、攻略法を念仏の代わりに読んでほしいってもんだよ。」

 

 

K君は清々しいほど、自分を肯定している。

 

 

「俺が一生懸命やって上手くいかなかったことがあるとする。例えば、1cmでもおっぱいが大きい子を探して、東京中を飛び回ったことがある。あれは、本当に骨が折れたね。だが、おっぱいが大きい子は、総じて人気がある。だから、やっと辿り着けたとしても、お宝を逃してしまうことがある。その時、明らかに俺は腹が立っていたさ。こんなに頑張ったのに何故ってね。」

 

 

「よく分からないな。そうだとすれば、君は不機嫌になっていてもおかしくは無かったじゃないか。」

 

 

「まさにそこがターニングポイントなんだよ。言うなれば、コペルニクス的転回だ。俺は、腹を立てている自分に腹を立てていることに気付いたのさ。人は一生懸命やっても報われなかったら腹を立てる。でも、それは俺にとっては限りなくみっともないことのように思えたんだ。」

 

 

「それが退廃的であったとしても。」

 

 

「そうだ、退廃的かどうかは大した問題じゃない。問題はもっと本質的なものだ。みっともない自分を責めるのはそりゃキツイことだったよ。どうすりゃいいか、毎晩のように考えたね。でも、俺はそこから抜け出せた。暗い森からパッと明るい平野に抜けたそんな感じさ。」

 

 

K君はどんどん饒舌になっていく。

 

 

「おっぱいが1cm大きいかどうかはかなり重要な問題だ。だからこそ、俺は求めた。まるで、勇者が少しでも勇敢な仲間を求めるように。でも、俺は気付いたんだ。その求める過程こそが、俺にとって大切なことだったんだ。つまり、巡礼した先にあるものではなく、巡礼の過程こそが大切だったんだ。」

 

 

おっぱい論を語らせれば、誰もK君には敵わない。一見下世話なようだが、K君にかかればそこには静かな光が称えられるような気もする。

 

 

「結論を言えば、おっぱいは一人ひとり違う。そのことに気付いたのさ。大きさだけが全てではないってことにね。」

 

 

言ってることが全く違うじゃねぇか。お前こそコペルニクス的転回をしてるぞと突っ込みたい気分でいっぱいだった。

 

 

よく思い出してみればK君は「おっぱいって揉めればそれでいいんだよね。」的な身も蓋も無いことを大学時代によく言っていた。

 

 

 

しかし、K君は満たされていたのだ。誰とも比べることも無い。自分だけの基準で、自分の世界を作り上げていた。そのことは事実なのである。

 

 

幸福とは、求めれば求めるほど遠ざかってしまうものなのかもしれない。

 

 

幸福の底なし沼は危険だ。

 

 

そこに入ってしまえば、抜け出すことは困難だからだ。

 

 

でも、脱出方法は必ずある。

 

 

それは、K君の話から明らかになったことだ。

 

 

そう、おっぱいは皆等しくおっぱいなのである。