パニック障害患者、まったりとブログやる

パニック障害になってしまいました。言葉遊びしてます。Twitter@lotus0083 ふぉろーみー。

ベートヴェンと狂気

引き続き書きたかったのですが、ブログチャレンジなるものの誘惑に負けてしまい、間が空いてしまいました。

それではどうぞ。

 

 

 

さて、前回書きたかったことを全く無視して自分の本能の赴くままに書きまくったら、ちょっと面白く書けた気になって、いい気分に浸ったんですが、後から読み返してみると、もう主張も小学生並みで、本当にひどい。仮にも本が好きですと公言できるような内容や表現に全くなっていないというとんでもない事態に陥ってしまいました。

 

やはり、文章を書いている時もしっかりゴールを見定めて書いた方が全然いいですね。横道に逸れてそっちはそっちで面白そうだから、そこを盛り上げて完結させるなんて技術はまだ持ち合わせていないのです。反省反省☆

 

あ、ちなみに件の「ヴ」なんですが、消えてしまうのはあくまで「国名表記」のみであって、普段の生活には出てきても全く法的に問題は無いです。という訳で、前回の主張は恐ろしいほど意味の無いものになりました。内緒の話をする時に「絶対に言わないでね」という言葉ぐらい意味の無いものになりました。

 

 

という訳で、「ベートヴェン」に関わる音楽の話。

僕は、音楽が大好きです。疲れた時なんかは部屋を真っ暗にしてヘッドホンで音量全開でクラシックを聴く時もあります。色々なクラシックを聴いてきましたが、まぁ、やはり「第九」は素晴らしい作品だと思うのです。

年末年始なんかどこ行っても狂ったように流れているので、「蛍の光」ぐらい日本人にとって馴染みのある曲だと思います。

 

この「第九」、合唱が入っていることで有名で、いわゆる一番有名であろう部分をサビとするならば、これほど有名なサビも無いだろうってぐらい有名です。なぜクラシックにしてあれほど有名になったのかを考えてみると、様々な要因がありそうですが、そのサビ部分が短くて、しかも繰り返しが多くて、明るい雰囲気、という商業音楽にとって大変使われやすいという側面もあるかと思います。

 

全体として「第九」は大体1時間ぐらいの編成で、僕は通しでしか聴かないです。なぜなら、音楽全体がきちんとしたストーリーになっていて、それが一番しっくりくるからです。しかし昨今の短い部分をむりやり切り取って、何回も狂ったように流すという、ある意味サブリミナル的な効果を狙ったものはいかがなものかと、音楽愛好家として思うのです。

 

人間は無音であることを嫌います。コミュニケーションをとる場では、必ずと言っていいほど音楽が流れています。無音の状態だと喋りにくくなるもので、電車が動いている時には喋っているのに、電車が止まってエンジン音が静かになると喋らなくなるような時ってないですかね?

 

その逆もまた然りで、やり過ぎるととんでもなく邪魔になるものも音楽です。

例えば、僕は良くブックオフに行って、ブログの為に毎日コツコツと情報を仕入れるためにジョジョの奇妙な冒険を読んでいるのですが、そこでかかっている音楽が非常にしんどい。特に、「ブックオフセレクション」なるものがしんどい。何回も何回も同じ曲がかかるので、その曲を嫌いになってしまいます。このおかげで、「いきものがかり」は確実に嫌いになりました。もう、全部嫌い。「エール」されても、全然元気にならない。

 

という訳で、散々詰め込まれたら、逆に嫌いになる、勉強しなさいって言われたら勉強が嫌いになるみたいなもんで、意図した結果とは逆のことが往々にして起こるものです。

 

 

さて、ベートーヴェンですが、映画化もされたこともあり有名な話で、苦難の人生を送りました。彼が一番苦手としていたのは「パンの為の音楽」、いわゆる商業音楽を作ることだったそうです。稼ぎの為とはいえ、苦しかったみたいです。更に、人にも騙され続けて、極貧の生活を生涯にわたり送りました。

 

これは驚くべき事実ですが、彼が「歓喜」をテーマにしようとして、そして実際にあの「第九」が出来るまでには、実に30年以上かかっています。他にも素晴らしい曲はあるのですが、ベートヴェンはまさにこの「第九」を作るためにこの世へ送られたと言っても過言では無いでしょう。

 

この「第九」、色々批判はあったものの初公演は大成功で、ベートヴェンは「楽聖」として称賛されました。しかし、3回目の公演辺りから飽きられてしまい、結局彼の死後になって、「第九」の評価が確立されたと言えます。

 

現実は大変厳しいもので、彼は常に貧しく、損をし、最後は極貧の中で最後まで信じていた人にさえ裏切られ死んでいきました。ベートーヴェンは、自分の全エネルギーを音楽の為に使い、そして音楽の発展に貢献したのです。

 

僕は思うのです。自分の今持てるエネルギーを用いて打ち込むものは何であれ崇高なものであると。そして、たとえ世間から評価されなくとも、そこには一種の聖なる輝きがあると。

 

 

思い出されるのが、友人のK君。

大学の同級生だった彼は、大学時代、良く一緒に遊びました。彼の家は大学の近くにあったので、授業が終わったら彼の家に遊びに行くことも良くありました。

 

そんな彼が大学の時にはまっていたのは、パチスロ、風俗、エロゲーの、堕落三本柱。特に僕が彼の家に遊びに行った時には良くエロゲーを二人でやっていました。僕はあまり二次元の方には興味が無かったので、エロゲーを持っていませんでした。ですので、エロゲーって結局ヌけるかどうかだろ、みたいな考えだったのですが、彼は違いました。

 

 

「なぁ、ゆーすけ。お前、エロゲーってただの性処理のツールだと思ってるだろ?」

 

 

 

「うん。実際そうなんじゃないの?」

 

 

 

「ある一つの側面においてはそうかもしれない。」

 

 

「ある一つの側面においては。」

僕は彼の言葉を確かめるように繰り返した。

 

 

「そう、性処理という側面においては、エロゲーは実際には向いてないんだ。選択肢を選ばなければならない、一度クリアーしなければ自分の好きなシーンを繰り返し見られない。これほど、目的を達するのに不都合で面倒なことはないだろ?」

 

 

確かにそうかもしれない。そう思っていると、K君は更に続けた。

 

 

「一つの側面しか見れないやつはハッキリ言ってバカだ。ニーチェの『神は死んだ』っていう言葉の一つの側面のみを取り上げて批判している聖職者のようにね。」

 

 

「なるほど、つまり君は様々な意味を見出しているわけだ。」

 

 

「いいかい、ゆーすけ。エロゲーは一つの作品、哲学とも言っても良いものなんだ。そりゃあ駄作もあるさ。学食の肉の入っていないビーフカレーのようにね。でも、世の中はそれだけじゃない。銀座で食べるようなカレーも存在する。同じようにエロゲーにも、ダンテの神曲に勝るとも劣らない作品があるんだ。そして、大抵の場合、そういう作品は音楽が素晴らしい。」

 

 

段々と白熱するK君。彼の手はぎゅっと握られ汗ばみ、そして目の前のパソコンの画面には先程から彼が最高の作品であると太鼓判を押したエロゲーのOPが繰り返し流れている。

 

 

「なるほど、確かにこの音楽は何回聴いても不快にならないね。それでいて、切なさもどことなく感じるよ。」

心の底からそう思って、僕は彼の話に同意した。

 

 

「いや、ゆーすけはまだわかっていない。それだけじゃただの一つの側面だ。大切なのは、トータルで見ることなんだ。そして、俺の魂を揺さぶるかどうかなのさ。『精神から炎を打ち出さなければならない』ってね。」 

 

 

「K君・・・。」

 

 

K君は、明らかに一つの境地に達していて、湖のような静けさをたたえていた。

そして、彼は静かにEnterキーを押した。

 

 

と、まぁこのように、エロゲーであってもそこに深く打ち込んでいるK君は聖なる輝きを確かに放っていたし、ある種の崇高さがそこにはありました。

その後、エロゲーにはまりすぎたK君は「サークルの女の子との会話が全部二択で出てくる」なんて、味なことを言ってまして、更に留年したんですけどね。

 

 

 

音楽とは、素晴らしいものです。僕自身も以前は音楽に関わる仕事をしていましたが、今後も音楽とは常に関わりたいなぁとは思っています。

そして、作品を作る時があれば、それは精神から炎を打ち出すような作品を作りたいです。

 

ベートヴェンや、K君の境地に達するためには狂気の中にどれだけ長い時間身を置き続けられるかどうかでしょう。

 

その狂気の中に身を置き続けて、周りの世界の解釈の仕方がガラッと変わった時に、僕は最高の作品を作れるのかもしれません。そういう意味では、僕はまだまだです。まだまだ狂気が足りない。

 

 

僕も、文章でも音楽でも何でもいいから後世に残るような仕事がしたい!!もっと狂気の中に身を置くべきだ!!!

 

 

というわけで、エロゲーにめちゃめちゃはまりたいと思います。

 

 

 

崇高な作品を作るためです。