出来ない卒業と桜
初めてのお題にチャレンジです。前回のお題の「卒業」も絡んでいます。それではどうぞ。
「良い日もあれば悪い日もある。だから、毎日真剣に生きなさい。大丈夫よ。」
厳しい冬を乗り越えて段々暖かくなってくると、心まで穏やかで暖かいような気がする。突き刺さるような冬の陽ざしが、身を包む柔らかな春の陽ざしに変わり、体の奥まで暖かさが染みこんでくる。
でも、そんな春の陽ざしが切ない気持ちを掻き立てる時もある。それは例えば人生の節目を迎えようとしている時だ。いわゆる「卒業」である。
永遠に続かのように思われた生活に終止符が打たれる。それは本当に容赦がなく、そしてむりやり打たれる終止符だ。
あの時の僕たちは、表面では強がっていても、将来に対する漠然とした不安を胸に抱えながら生きていた。
たとえ今の学校を卒業したとしても自分の人生が続いていくことには変わりはないし、今の友人との関係が切れたとしても、また新しい友人が出来るだろう。そんなことを思っていても、卒業の前は不安な気持ちでいっぱいだった。
卒業の日が近づくと、妙に心の奥がざわざわし落ち着かなくなる。春のうららかな陽気が逆に自分のこころのさざめきを掻き立てる。これで、最後なんだな。そう思えば思うほど切なくなる。そして、僕たちは卒業というイベントに向かって背中を押され続ける。こちらの意思とは関係無く。
僕は、中学を卒業すると同時に地元を離れ、親元を離れ、東京の高校に進学した。だからこそ、中学校の卒業は自分にとって何となく特別で、学校や友人は勿論、今まで慣れ親しんできた家族とも別れなければならない時だった。別れると言ってもおおげさで、もちろん電話すれば友達は出てくれるだろう。家族だって、帰ればいつだって迎えてくれるだろう。
しかし、僕はそれから先の人生で、どうしても地元の友人との間や家族との間に存在する、居心地の悪さを感じないわけにはいかなかった。何日も使われていなかった自転車を、無理矢理動かした時に出る軋んだ音のような、そういった類の居心地の悪さだった。
僕の母親は子供にはとんでもなく優しい人で、お節介な人だった。長期休みに入って実家に帰る時はいつも駅まで迎えに来てくれていたし、腕をふるって料理を毎日作ってくれた。
「ねぇ、何食べたい?」
母はいつも僕に聞く。
「そうだなぁ、から揚げとてんぷらと、それから・・・」
「正博(僕)がそうやって言ってくれるから、本当に作り甲斐があるわ」
なんて会話が交わされていた。母は本当に優しい人だった。
でも、普段の何気ないやり取りの中で、やはり居心地の悪さを感じてしまっていた。僕の求めていたものは「普通の親子」関係だったのだ。別に特別なおもてなしをしてくれなくていい。僕が家にずっといた時と同じように接して欲しかったのだ。
それは、もちろん地元の友人に対してもそうで、わざわざ時間を作ってくれたり、そういうのは有難かったのだが、その行為はむしろ逆に僕の居場所はここには無いということを、僕に否応なしに突きつけた。
そのことが、僕を切ない気持ちにさせた。
そして、長期休みが明けた後で、高校の寮に帰らなければならないとき、また切ない気持ちになるのだ。
僕の居場所はどこにいっていまったのだろうか?そんなことを考えていた。
ただ、母はいつもそんな僕を励ましてくれていた。そして、母自身も僕との親子関係で悩んでいたのだ。そのことは、僕にとってささやかなエールとなっていた。
「卒業」は高校生の時から数えて2回した。高校、大学である。大学の時ほど感慨深くない卒業は無かった。卒業するという感覚が驚くほどなかったのである。別に離れ離れになって寂しくなる友人なんていなかったし、家族も離れて長い時間が経っているので、何かから卒業したという感覚が全く無かった。だから、一切寂しくなかった。というより、早く大学からは去りたかったので、やっと卒業か、ぐらいな感覚であった。
そして、僕には夢があった。とてもキラキラしていて、それを掴むためならどんなことだってしてやると思っていた。だから、大学の卒業後は充実していた。お金が無くてゴミを漁った日もあったが、毎日が楽しくて仕方がなかった。
しかし、僕の人生に暗い影のようなものが、突然目の前に降りてきた。大学を卒業してから2年後のことだ。
母に転移したガンが見つかったのだ。まさに晴天の霹靂というやつで、信じられない気持ちでいっぱいだった。ただ、ガンの恐ろしさが全く分かっていなかった僕は、きっとすぐに治るのだろうと思っていた。普通の病気と同じように。そして、手術も成功した。だから、治ることを信じて疑わなかった。
でも、僕の予想に反して母の身体は全く良くならなかった。母は日に日に弱っていった。病院による標準治療は打ち切られ、身体の衰弱も激しく、挙句の果てにはガンが骨転移することによって脊髄が潰れてしまい、母は歩けなくなってしまった。
そうなると、介助者が必要になるのは言うまでもない。
僕には夢があった。もう少しで手が届きそうだった。いや、掴みかけていた。でも、何となく母と一緒にいられる最後のチャンスだと思い、僕は母の介助をすることにした。僕は握りしめていた夢を放した。手のひらからすり抜けていった輝くような夢は、何年も放置された空き家の中にかけられている、色あせた古びたカーテンのようにしか見えなかった。
思えば、母とこうしてずっと一緒にいるのは中学生以来だった。もちろん、母は病気で体が不自由だったから、中学の時とは状況は違っている。でも、僕はこの時に思ったのだ。
やっと、僕が求めていた「普通の親子」関係を取り戻せた、と。
母は病気のせいでストレスが溜まっていた。僕も介助疲れでストレスが溜まっていた。お互いにやりきれない気持ちをぶつけ合った時もあった。でも、それがまさに僕の求めていた親子関係だったのだ。
普通に毎日挨拶をして、ちょっとしたことでケンカしたり、時には励ましてくれたり。そんな普通のことを僕は求めていたのだ。
ただ、想像以上にガンは手強かった。僕が治療をするわけでは無いのだけれど、全力で介助してもどうしようもなかった。母の手を握るたびに、僕は哀しい気持ちになってしまった。それは、枯れ果てた枝のような手だったのだ。僕が子供のころ、色んな料理を生み出していた活気に溢れていたその両手は、忘れ去られた冬の木の枝のような手になってしまっていた。
闘病中、母がいつも言っていたことがある。
「良い日もあれば悪い日もある。」
そうやって、自分にも言い聞かせていたようでもあるし、僕に伝えてくれていたのだとも思う。
ある日のこと。
「あのね、お母さんね、親子っていいなぁー、って最近思うの」
母は突然言った。
僕は心底動揺してしまった。
「いきなりそんなこと言ってどうしたんだよ、やめなよそういうこと言うの」
僕は、何とか動揺を隠そうとした。
「アタシ、子供欲しいなんて思ってなかったの。元々子供嫌いだったし」
母は続けた。
「でもね、正博が産まれて、変わった。子供ってこんなに愛しいものなんだって思ったの。いつも私がお世話していたのに、今度は私がお世話される番になっちゃって、最初は慣れなかったけど、こうやって命は続いていくんだなーって感じるの」
目を閉じながら、母はそう言った。
「まぁ、どうでもいいけどさ。早く病気治して元気になろうよ」
僕は、そう応えるだけで精一杯だった。
母が寝静まった夜、僕は自分の気持ちが抑えられなくなり、そっと外に出て、そして全力で走った。僕は逃げたかったのだ。この現実から。この状況から。でも、それはどんなに走っても、後からぴったりとついてきていた。まるで、燃え盛る炎に照らされて出来た影のように。その影は、僕が産まれた時からピッタリと後ろに張り付いていたかのように息を潜め、そして突然姿を現し、気が付けば僕はすっかりその影に絡まれて、僕の人生というものは動きが全く取れなくなってしまっていた。
季節は過ぎ、冬に入りかけの時だった。
いつものように僕は母の車いすを押して、外へ散歩に出かけた。外には一年に一度訪れる冬の匂いがほのかに香っていた。陽ざしは、冬の眩しさをおだやかに放っていた。
「ねぇ、悠介。桜はまだなの?」
車いすに乗った母は言う。
「いや、まだでしょ。だってまだ年も越えてないよ」
「そっか。桜じゃなくて他の花で満足しなきゃね」
「桜が咲くまでなんてあっという間だよ」
僕は答えた。
母は花が大好きだった。実家の庭には、母が大事に育てていたバラやパンジーやチューリップが、春になると咲き香っていた。
僕は、ふと思った。
母がいなくなった世界で僕は生きていけるのだろうか、と。
近いうちに母が死んでしまうことは分かっていた。それは母も分かっていたんだと思う。桜の季節まで母の身が持たないことはきっと分かっていた。お互いに。
僕は、母の死を受け入れられそうになかった。でも、残酷にも時は進み続けるし、母の中に生きている生物は、母の体を確実に蝕んでいる。
「良い日もあれば、悪い日もある」
母は繰り返し言う。
そうだけど、僕には母がいなくなった世界では「良い日」があるとは思えなかったのだ。
「ねぇ。良い日もあれば悪い日もあるわよ」
母は、僕の心を見抜いたかのように言った。
「良い日もあれば悪い日もある。だから、毎日真剣に生きなさい。大丈夫よ。お母さん、何も心配してないわ」
それから、およそ3週間ほどで母はこの世を去った。
どんなに望んでも、この世ではもう会えないのだ。僕の世界が色を失い、そして、終わってしまったように思えた。
母がいなくなっても世界はいつも通り規則正しく進んでいくし、時間は止まらない。でも、僕の時間はその時から動いているのだろうか?
もちろん、新しい出会いもあったし、他の道に進んだりもした。でも、何か、喉の奥に骨が刺さっているような引っ掛かりを心に抱えたまま生きている気がしてならない。
思えば、それまでの別れは本当の別れではなかったのだ。いくら会えないとは言っても、死んでいない限り会いにはいけるのだ。
「卒業」は終わりと始まりを含むものであって、母の死に関しては終わりしか存在しなかった。
これがドラマとか映画なら、霊的なものになって母が現れてくれたり、こちらから黄泉の国にでも出向いて行けるのだろうが、残念ながら、この世の英知を集めてもそれは叶わない。
現実とは恐ろしいほど残酷だ。
母がいなくなってからもう4年が経つ。さすがに母がいない現実というのを受け入れ始めてこられたように思う。
でも、僕はきっとまだ母から「卒業」はしていない。「卒業」を迎える時はもしかしたら無いのかもしれない。だって、そこには「始まり」は無いのだから。
「良い日もあれば悪い日もある。だから、毎日真剣に生きなさい。大丈夫よ」
桜を見ると、こんな母のお別れの言葉が聞こえてくるような気がする。
そして僕は、それからある程度成長したのだと思う。
こうして、母との思い出をせっせと文章にして書ける程度には。