パニック障害患者、まったりとブログやる

パニック障害になってしまいました。言葉遊びしてます。Twitter@lotus0083 ふぉろーみー。

石ころのような非日常

心療内科の待合室は水を打ったように静かだ。

 

 

聞こえてくるのは受付の女性同士の話し声と、コピー機が作動する音だけだ。

 

 

個人病院の待合室は大抵静かなものであるが、心療内科の静けさは少し趣が違っているような気がする。それもそのはずだ。ここにいる患者は何かしら心の病気を抱えているのだから。お互いがお互いに干渉せず、何となく自分の殻に閉じこもっているような人が多い気がする。

 

僕もそんな患者の一人である。基本的には自分の領域にそう易々とは入ってきて欲しくないとは思っている。

 

 

この前の受診の日は、爽やかな南風が街を吹き抜け、初夏を思わせるような暖かさに満ちた日であった。こんな日はどこかのテラスでアイスコーヒーでも飲みながら、友人と心ゆくまで語り合いたいものである。しかし、僕が向かう先はビルの中にある心療内科で、語り合う相手は医者だ。もちろん、アイスコーヒーなんて注文できない。人生は上手くいかないものだ。

 

院内は静かだ。患者数もその日はそんなに多くはなかった。皆思い思いに待ち時間を潰していた。知らない人同士が話していることは滅多にない。ここはそういう場所である。だから、大抵は静かだ。

 

そんな時の出来事である。

 

 

「あらあらあら、はいはいはい、どうもこんにちは!お母さん、診察券は持ってきたの?ほら、そのカバンのポケットに入ってないかしら?」

 

 

女性の大きな声が院内に響き渡った。その場にいた全員の視線がその女性に集まる。僕もその女性に目を向けた。どうやら親子が一緒に来院したらしい。診察を受ける方は母親で、娘さんが付き添いというところだろう。どちらも、歳をとっていた。

 

 

「あ、ここが空いてるわね。ほら、お母さん。こっちへおいでなさい。」

 

 

おいでなさい、って初めて聞いたな。それにしてもやたらと声のトーンが大きい。母娘共々耳が遠いのだろうか。しかし、受け答えをする母親の声の大きさは普通だった。娘さんの声が異常に大きいのだ。おいでなさい、って初めて聞いたな。そう思わざるを得なかった。

 

 

「いやー、今日は暑いわね、ねぇお母さん。そう言えばテレビでやっていたんだけど、ボケ防止にはトマトを一日一個食べると良いって言っていたわよ。ねぇ、お母さん。それにしても暑いわね、今日は。でも、今の季節って結構トマト高いわよね。やだわー、あたしもボケ防止しないとダメかしら、アッハッハ。」

 

 

喋りまくりである。受付の女性も患者対応をしつつ、チラチラとその娘さんに視線を向けていた。ここでの日常は静寂なのだ。非日常的なことが起こると、人は動揺し、その原因となるものを警戒し始める。まるで、ライオンを警戒するインパラのように。きっと、この受付の女性もそんな気持ちだったに違いない。

 

 

「あ、そういえば、さっき教えたスカーフの巻き方は覚えた?もう一回教えてあげるわよ。ここをこうして・・・、こうして・・・、こう。ほら!良い感じじゃない!すごく奇麗よお母さん!本当に奇麗!じゃあ、自分で出来る?さぁ、やってごらんなさい。」

 

 

ごらんなさい、って初めて聞いたな。娘さんは立ち上がり、母親にスカーフの巻き方をレクチャーし始めた。何度も母親の正面に立ち、見栄えを確認して褒める。受付の女性は、もうその娘さんの言動にくぎ付けになっていた。患者対応をしても、目線は全くブレなかった。次は一体何をこの女はしでかすのか。そんな緊張感が漂っている。しかし、ごらんなさい、って初めて聞いたな。僕はそんなことを思っていた。

 

しかし、声こそ大きいが、見ようによっては幾つになっても変わらない微笑ましい母娘の会話にも見える。いくら歳を重ねても、親子という関係は変わらない。娘さんは、病気にかかっている母親のことを本当に大事に想っているのだろう。心の病気にかかるというのは大変なことだ。じゃあ、自分が少しでも明るく振舞ってお母さんを元気づけてあげよう。そんな気持ちだったのかもしれない。

 

ああ、この娘さんは何て親想いなのだろう。声こそ少し大きいが、その振る舞いに感動を覚えた。そして、自分にはもう想うべき母親が存在していないということを思うと、少し寂しい気持ちになった。親が生きているうちは、少しでも優しくした方がいいと思う。大抵の場合は。それにしても、ごらんなさい、って初めて聞いたな。僕はそんなことを思った。

 

 

やがて僕は診察室に案内され、いつも通りの診察を受けまた待合室に戻った。しかし、もうその母娘の会話は終わっていた。娘さんも待合室にあった雑誌に視線を落としていた。待合室はいつもの静けさを取り戻していた。そして、受付の女性も安心したかのように患者対応に集中し始めていた。この空間は、日常をその手に取り戻したのである。

 

僕は、会計を済ませ、処方箋を受け取り、同じビル内にある薬局に向かう。薬局は病院と比べると賑やかだ。そこは待合室兼、簡単な診察室にもなっているのだから。薬局には科目は存在しない。心療内科にかかっている以外の人も当然やってくる。だから、心療内科特有の空気の重たさとか、その重たさを打ち消すために無理をして作られた明るさなどは存在しないのだ。言わば、ナチュラルな状態なのである。

  

僕は薬を受け取るために待っていた。そして持ってきた本に視線を落とす。今日はサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を持ってきていた。サリンジャーの表現技法は天才的だ。僕は、内容云々よりもそこが気に入っていた。しかし、頭になかなか本の内容が入ってこなかった。その時僕の心とらえていたのは「ごらんなさい」だった。僕を病院でつかまえたのは「ごらんなさい」だったのだ。

 

何となく少し皮肉めいた笑いを自分に対して向けた。そんなつもりで僕はこの本を持って来たんじゃないのにな。全く、あの母娘にはしてやられたな。でも、周りを気にせず母親を想う気持ちは本物だったな。それにしても、ごらんなさい、って初めて聞いたな。僕はそんなことを思っていた。

 

やがて僕の名前が呼ばれ、いつも通りのやり取りが薬剤師と行われる。内容は何回行っても全く変わらない。誰が担当で入ろうとも全く変わらない。かなり形式的なものだ。きっと、僕が死んでも、この形式的なものは存在し続けるんだろうな、と思った。

 

会計を済ませ、帰りの準備を整える。

 

 

「すいませーん!」

 

 

あの娘さんの声が薬局内でも響き渡った。まぁ、予想はしていたのだが薬局でも鉢合わせることになった。大抵の患者は、病院から一番近い薬局に行くので、病院で出会った患者と薬局でも出会う確率はかなり高いのだ。

 

 

「あ、お母さんここ空いてるわよ。さぁ、こっちへおいでなさい。」 

 

 

おいでなさい、って初めて聞いたな。あれ、これさっきも思ったっけか。僕は、何となくそんなことを思いながら帰り支度を終えて、席を立ち上がろうとした。

 

 

その瞬間である。 

 

 

「お母さん、そのスカーフやっぱり奇麗ね。もう一回よく見せて。ん・・・?あら・・・?お母さん、頭汚いわよ!!うわ、汚い!!本当に頭洗ってるの?この白いのなんなの?!うわー、やだ!本当に汚い!!」

 

 

衝撃の発言であった。

 

 

その一つ一つの言葉は僕の頭を見事に打ち抜いた。そして、薬局内にいる人間全員の頭も打ちぬいた。時が止まった。誰もが最初に動き出そうとはしなかった。いや、動けなかったのだ。上述したように、人は非日常的なことに遭遇すると、全力で警戒モードに入る。これは、人間の動物としての本能なのだろう。そうなると、下手に動けない。何故なら、次の行動によっては自分の命が失われるかもしれないからだ。

  

誰もが自分の耳を疑い、誰もが次に来るであろう衝撃に身を備えた。まるで、飛行機が墜落すると告げられた乗客ように。

 

どれくらいの時間が経っただろうか。いや、今この空間においては時間という概念は存在していないのかもしれない。勿論、傍から見れば一瞬の出来事だろう。でも、僕たちにとっては永遠とも思えるような時間が経ったように思えたのだ。なるほど、時間という概念は、個々人の感覚に依存するのかもしれない。

 

 

非日常というのは、その辺に転がっている石ころのように、どこにでも存在するものなのかもしれない。そして、その辺で口を開けて、僕たちを待ち構えているのだ。

  

やがて、氷が解けたように人々は動き始めた。僕も動き出し、薬局の扉を開け外に出た。そこはもう普通の世界だった。僕は帰って来たのだ。日常の世界に。

 

 

ビルの外に出ると 心地よい南風が吹いていた。そして、まだ懸命に咲いていた桜が、南風に乗って花びらとなって舞っていた。まるで、僕の帰りを祝福してくれているようだった。

 

 

 

きっとあの母親の頭にはこの花びらがついていたのかもしれないな。

 

 

 

いや、真実を追求するのはもうやめよう。僕は日常の世界に帰って来たのだから。