パニック障害患者、まったりとブログやる

パニック障害になってしまいました。言葉遊びしてます。Twitter@lotus0083 ふぉろーみー。

その裏に見える男の戦い

電車はある一定のリズムを刻む。

 

そのリズムの捉え方は、自分の心の状態・置かれた状況によってスライムのように変化していく。自分の心が落ち着けるほど平和な気持ちでいるならば、そのリズムは眠りを誘う心地よいものになる。しかし、一たび電車の外からそのリズムを聞くと、心の底から止んでほしいと願うほどの耳に障るものになる。

 

なるほど。僕たちのモノの捉え方というのは、かなりの部分で空間に依存しているのかもしれない。電車の内と外では、リズムの捉え方がまるで変ってくる。同じリズムを体験するのであれば、やはり自分の心を落ち着けられるような時間帯に、電車の中にいることが望ましい。

 

 

平日の午後の時間帯こそ、まさにそのような安らぎを提供してくれる時間帯である。

 

 

車内を見回すと、ジャージ姿の女子高生が並んで座って楽しそうに喋っている。ベビーカーを脇に置いて、子供の寝顔を覗き込んでいる母親。トレッキングの帰りだろうか、リュックを背負って水筒のお茶を飲んでいる中年の女性。世間で起きていることは自分には関係ないといったような感じで読書にふける、年老いた女性。

 

電車の中は、平和な空気で満ちていた。暑すぎない車内。穏やかな話し声。ここでは、皆が適度な距離を保ちつつ、ささやかではあるが幸福な時間が経過してゆく。

 

 

もしもこのままの人数で、このままの距離間でそれぞれが存在し続けたならば、永遠に戦争なんて起こらないのではないだろうか。

 

そういった雰囲気が電車内には満ちていた。

 

 

しかし、時というものは残酷にも進み続けるし、空間は常に変化をしていく。こちらの願いとは関係なく。いつだって、平和な空間は破滅の可能性をはらんでいる。恐ろしいほど崩れやすい均衡の上にしか、平和は存在しないのだろう。

 

 

それは、この電車内でも同じことだ。

 

 

比較的乗降する人々が多い駅に止まって、ドアが開いた瞬間のことだ。

 

 

 

中年の男性がもの凄い車内に駆け込んできて、シートの端に座り、窓を空けたのだ。何かに追われてこの車内に逃げ込んできたような緊迫した雰囲気を漂わせていた。

 

最近の電車の窓は、上の部分しか開けられないようになっている。しかも開けるといっても、ほんの少ししか開かない。そしてその男性は席に着くや否や、そのほんの少し空いた窓に顔を寄せ、外の空気を吸おうと必死になっていた。まるで、この車内には毒が充満していて、外の新鮮な空気を少しでも多く取り込もうとしているかのように。

 

 

この瞬間、車内の均衡の破滅が起こった。

 

 

周りの乗客のリアクションは想像に難くは無いだろう。誰もかれもがその男性に注目し、そして、自分に被害が出ないよう心の中で祈り始めた。目の前の女子高生は苦笑を浮かべながらも固まっている。全員が蛇に睨まれた蛙のようであった。

 

 

僕も、最初は正直面食らってしまった。

 

 

普通に考えたら、そんなことをする人は稀である。しかも、花粉症の季節に。暖かくなってきたとはいえ、まだ窓を空けるほどの暑さではない。そもそも、電車内の窓を空ける行為自体が珍しいのだ。

 

そう考えると、この男性の行為はかなり奇異に映る。おまけに、全身が緑色だったのだ。まるで、ミドリガエルのように。どちらかと言えば、僕にとっては男性の類まれなるファッションセンスのほうが気になっていた。

 

 

誰もが、彼と関わり合いになりたくないと思っていた。

 

 

でも、僕は彼の行為に思いを馳せてみた。一体何が彼をこのような行為をすることに追いやったのだろうか。

 

 

僕は、このブログのタイトルにもあるようにパニック障害を患っている。かなり回復してきたとはいえ、やはり閉鎖空間が苦手だ。電車が停止信号などで予期せず止まったりすると、僕の心拍数はどんどん上がっていく。とにかく外に出たい衝動に駆られるのだ。

 

きっと、この男性も何かしらの意味があって空けているのだろう。もしかしたら、僕と同じような病気にかかっているのかもしれない。窓を少しでも開けることによって、閉鎖空間を打破し、心を落ち着けようとしていたのかもしれない。

 

もしくは、この男性は重度のハウスダストアレルギーで、埃が少しでも舞う空間が苦手なのかもしれない。そういえば、緑色の服は上下ともにナイロン製で、シャカシャカと音を立てていた。

 

またあるいは、この男性は平和ボケをしている僕たちに一石を投じたかったのかもしれない。平和とは恐ろしく脆いものである。崩すことなど簡単であると。

 

 

そう考えると、この男性は決して僕たちを苦しめようとして、このような行為に至ったのではないというように思える。いや、むしろ、自分を守る聖なる戦いに身を投じ、あるいは、僕たちに啓示を与えようと自らの身体を犠牲にしたのかもしれない。

 

 

おっさん、悪かった。変な目で見つめて申し訳なかった。おっさんだって苦しかったんだね。全体の利益と自分の利益を秤にかけて、悩んでいたんだね。ものすごい勇気を出して、電車に乗ったんだね。碇シンジ君のように。

 

 

そうだ、誰もおっさんを責められない。平和で物静かな空間は壊されてしまったかもしれないが、それは直接的には誰にも被害を与えない。おっさんは、緊急を要しているのかもしれないのだ。自分のこと、この日本のことを考えた時に。

 

 

僕はパニック障害になってしまって、悪いことばかり起こっていると思っていた。

 

しかし、そんなことは無いのだ。

 

もし僕がパニック障害では無かったら、閉鎖空間が苦手な人がいるなんて思いもしなかっただろう。いや、閉所恐怖症などは知っていたが、閉鎖空間の辛さは真に胸には迫ってこなかっただろう。

 

そして、病気にかかる前の僕だったら、そのおっさんを奇異な目で見て、全力で避けようとしただろう。なんなら、その窓から飛び降りてしまえ、なんて思っていたかもしれない。

 

 

でも、僕は、そんな奇異に見えるおっさんの行為の裏側に、戦っているおっさんの姿を見たのだ。

 

 

そんな目で人を見ることが出来ると、ほんの少しだけ優しい気持ちになれる。

 

 

そうやって、人が人に対してほんの少し優しくなることが出来れば、この世界ももう少し住みやすい世界になるのかもしれない。

 

 

おっさん、そんな考えに気付かせてくれてありがとう。

 

 

僕は、イタリア人のような粋な笑みを浮かべ、大げさにアクションを取りながら握手したい気持ちでいっぱいだった。その服のセンスはどうかと思うけど。

 

 

 

そんなことを思いふけっていると、おっさんはいきなり窓を閉め、普通に座りスマホを見だした。

 

 

 

おっさん、僕の思考時間とエネルギーを返せ。

春の微笑みとじいさん

やはり、春というのはこうでなくてはならない。

 

柔らかな陽ざし、どこからか運ばれてくる産声をあげたばかりの木々の香り、生きている喜びを全身で表現しようとする色とりどりの花たち。街は、花の香りと南風にぐるりと包まれていた。

 

人々にも活気が満ちている。寒さから解き放たれたように。自然と、街には人の声も多くなってくる。多くはなるが、怒号などは決して聞こえない。皆おだやかに挨拶を交わし、冗談を言い合ったりする。

 

「きれいだねぇ」

 

子供連れの母親が、沿道にひっそりと咲くチューリップを見て、子供たちに言っている。子供はその花の生命を全身で感じようとしている。母親は、微笑んだまましばらく花を見つめていた。まるで、平和を願う修道女のように。

 

僕は歩く。この平和な空気を胸いっぱいに吸い込みながら。

 

たんぽぽが咲いていた。子供の頃にはよく摘んだものだ。まだ綿毛にはなっていないが、綿毛を吹いて遊んだ記憶が、少しの痛みと共に胸に迫ってくる。たんぽぽなんて、大人になってからは一切気にしていない。でも、子供にとってはたんぽぽが咲いていることが重要なことだった。よく見ると、色んな植物が土の中から出てきていた。つくし、ヒメノオドリコ。皆、子供の時に摘んだものだ。

 

 

いつの間にか僕たちは小さな自然を楽しもうとする子供の心をどこかに置き忘れてきたのかもしれない。そんなことを考えると、胸の中には春には似合わない少し寒い風が吹いたような気がした。

 

狭い公園のベンチに腰を下ろすと、鳥たちの話し声が聞こえてくる。いくら探しても、その鳥たちの姿は見つけることが出来ない。もしかしたら、からかわれているのかもしれないな。そんなことを思ったが、鳥たちの話し声は平和そのもののような気がした。

 

目の前には、所狭しといくつかの遊具が申し訳なさそうに置いてある。遊具の色はかなり新しい。きっと、急造されたものに違いない。でも、子供たちにとっては狭いかどうかはあまり問題じゃない。遊具が出来た。それだけで子供たちは嬉しいのだ。現に、座っていると、子供の歓声が聞こえる。遊具に興奮しているのだろう。

 

僕たちは大人になるにつれて、不満事が多くなっていくような気がする。溢れると不満になってしまうコップのようなものが心の中に存在して、そのコップは年月と共に小さくなっていくのかもしれない。

 

 

ベンチから立ち上がり、再び歩き始める。

 

 

静かな住宅街だ。でも、その静けさはある種の暖かさに包まれていた。ある家の庭にはパンジーが咲いていた。パンジーには色んな色がある。だから、組み合わせが大事なのだ。ここの家のパンジーの組み合わせは優しい色をしていた。でも、その優しさは触れると壊れてしまうような繊細さを備えていた。優しさとは、繊細な気持ちが無いと生まれないのかもしれない。

 

隣の家は少しだけ大きい。その庭では犬が寝ていた。まるで、周りには全く敵などいないと安心しきっているようだった。犬を見ていると、家の中から中学生ぐらいの女の子が出てきた。そして、柔らかな微笑みなを浮かべながら犬を大切そうに抱きしめた。まるで、自分の子供であるかのように。犬は嬉しそうに女の子に鼻を寄せて甘えている。女の子と犬は、家の中に一緒に入っていった。きっと、家の中で一緒にご飯でも食べるのだろう。

 

 

暖かい光に包まれた午後。目を上げると、手のひら大の、まぶしく光る小さな雲が、いくつか浮かんでいた。その雲には光がいっぱいに染み込んでいる。まるで、雲も暖かさを全身で受け止めているようだ。

 

頭の中に、突然メロディーが浮かんできた。何てことはない、子供の頃によく聞いていた童謡だ。僕は久しぶりにその歌を口笛で吹いた。その音は、空に吸い込まれていった。空には、音楽という栄養が必要なのだろう。

 

 

少し歩くと商店街が見えてきた。

 

 

昔ながらの商店街で、天井にはアーチ状の屋根がついていた。人々は楽しそうに買い物をしている。八百屋には色んな種類の春の野菜が揃えられていた。買い物客と、店の主人のやり取りは聞いていて、心地よいものだった。おすすめを聞く客、はきはきと少し大きな声で冗談を交えながら答える主人。その冗談に微笑む周りの客。ここの店は繁盛しているのだろう。願わくは、この先もこういう店が続いてほしいと思う。

 

あちこちで、世間話が行われている。皆楽しそうだ。日々の不満でも話したり、噂話をしたりしているのだろう。でも、その顔には皆笑顔が浮かんでいた。誰もかれもが、この春を待ち望み、そして、日々の中で心ゆくまで楽しんでいるのだ。花見なんかしなくてもいい。ただそこに、一輪のチューリップがあれば、それでいい。

 

花屋は、それこそ春を感じさせる花をたくさん揃えていた。

 

僕は花屋に入り、チューリップを一輪買った。花は、見る人に暖かさを与えてくれる。自分の命を犠牲にしてまだ。そういえば、彼女もチューリップが好きだったな。今度、チューリップ園にでも一緒に行こうか。そんなことを思いながら店を出た。

 

 

そろそろ帰ろう。そう思い、また歩き始めた。

 

 

すると、何やら演説のような声が聞こえてきた。そういえば、そろそろ選挙の時期だ。合点がいった。

 

しかし、あの演説というものは誰が聞いているのだろうか。せっかくの、春の雰囲気がぶち壊しな感じがして、僕は少しだけ悲しくなった。どうせ選挙が終わったらぱたりと止むのだ。蝉の声のような風物詩にもなりやしない。

 

どうして、大人になると自分の都合がいいようにするのが当たり前になってくるのだろう。そんな不満を抱えた僕も十分大人になってしまった。自分の思想や政策をマイクを通して垂れ流すのでは無くて、皆と一緒に花でも見ればいいじゃないか。演説している暇があったら、そこにいる人に今困っていることを聞けばいいじゃないか。

 

大人になればなるほど、僕たちはどんどん自分勝手になっていくのだろうか。そんなことを考えると、暗い気持ちになってしまう。

 

 

そんなことを思っていてもしょうがない。帰ろう。

 

 

歩こうと思い前を向くと、一人のじいさんが歩いてきた。じいさんの歩みは遅い。そのことを利用して、選挙活動をしていた青年がチラシを渡しにかかる。な、なんて汚ねぇ奴らだ。てめぇらの血は何色だ!!そう憤慨していた瞬間。

 

 

ボグゥオ!!!!!

 

 

突然大きな音がした。

 

 

三角コーンにじいさんが股間をぶつけたのである。

 

 

周りの空気が止まった。まるで、そこだけ世界から切り離されたかのように。

 

沈黙を破り、チラシを渡していた青年が慌ててじいさんに話しかけた。

 

 

「だ、大丈夫ですか!?」

 

 

 

 

じいさんは、痛がるそぶりも見せず、ゆっくりと上体を起こした。

 

 

「大丈夫大丈夫。痛がるほど立派なものをつけとらんわい!!それより、あんちゃんは大丈夫か?」

 

 

その姿はまさに威風堂々。

 

 

そうか、きっとそうなんだ。いくら歳を重ねても、僕らは人に優しくすることが出来るのだ。結局は、人に対して優しさを持てるだけの強さが、自分にあるかどうかなのだ。

 

 

このじいさんは、きっと恐ろしく、そしてしなやかに強いのだろう。

 

だって、あんなにも優しいのだから。

 

そのじいさんの優しさは、さながら包み込むような優しさの中に芯が通っている春の陽ざしのようだった。

 

 

そんなじいさんの姿を見ていると、さっきまでの暗い気持ちはどこかにいってしまった。じいさんは、僕の暗い部分をも取り去ってくれたのだ。まるで太陽のようだ。

 

ありがとうじいさん。あなたのような人がいれば、まだまだ日本は安心だ。

 

 

 

そんなじいさんの足取りは、少し内股になっていて、更に遅くなっていた。やっぱり、痛かったのだろう。だって、すごい音がしたもんな。

 

 

まったくじいさん、あんたって奴は・・・。本当に泣かせやがる・・・。

幸福の底なし沼

つい先日のことだ。

 

割と長い付き合いを持つ友人と久しぶりに会った。

 

思えばパニック障害を患ってからというもの、外で友人と会うなんて全く出来なかった。それが、友人と会うまでに回復出来た。まだ、服薬は当分の間必要なものの、一歩一歩回復出来ている自分がいるというのを再認識出来て、とても幸福感に満ちた時間を送ることが出来た。

 

やはり、友人と会うのはとても良いことだ。気兼ねなく色んなことを話し、特に物事を論理立てて話をしなくても良いということも非常に気楽である。何よりも、話を聞いて新しい視点を得られたりだとか、自分一人では気付くことの出来なかった自分の考えを発見出来ることが純粋に嬉しい。

 

 

自分の友人に会えることがこんなにも自分を満ち足りた気持ちにしてくれることなど あったであろうか、と思うほどその時間は幸福感で満ちていた。

 

恐らく、病気を患わなければこんな気持ちにはなれなかったっだろう。

 

 

 

病気と闘うということは、孤独な作業だ。

 

 

 

いつもぽっかりと口を開けて待っている、落とし穴に落ちないように自分を制御しながら生き抜いていかなければならない。その落とし穴に落ちたら、這い上がってくるのには大分時間がかかる。しかも、落ちてみるまでは、その穴の深さは分からないのだから厄介である。

 

しかし、この感覚を日々持っているからこそ、こうした友人との時間に幸せを感じられるというのもまた事実だと思う。そう考えれば、病気も悪いものではないと、ほんの少しだけ思える。

 

 

 

幸せの尺度というのは、個々人によって変わる。

 

 

 

病気になってみないと健康の有難さに気付けないし、貧乏にならないとお金の有難さは分からない。人間とは、本当に厄介な生き物だと思う。そして、僕たちは自分が定義した幸せに向かって日々突き進んでいる。多分、それは死ぬまで終わりを迎えることは無いのだろう。

 

どんなに満たされても、自分が望む限り幸せというのは訪れない、そんな風に思えるのだ。

 

 

幸せとは何なのだろうか?

 

 

今、盛んに叫ばれている幸福というものはかなりの部分で相対的なものに過ぎない気がする。周りに人がいればいるほど、その幸福というものは音を立てずに形を崩していく。そう考えると、人が多い東京は幸福の底なし沼のようだ。

 

 

しかし、絶対的な幸福など存在するのだろうか。

 

 

あるとすれば、今の現状に大いに満足することなのだろうと思う。

 

そんなことは、本当に可能なのだろうか。いや、自分は幸せであると豪語する人は意外と多い。でも、心の底を覗いたときにやはり満たされない気持ちを抱えていない人など、ほとんどいないと思う。それほど、満たされるというのは難しいのだ。

 

 

友人と会った数日後のことだ。

 

 

このブログでもたまに登場する友人のK君から連絡が入った。特に用事という用事も無いのだが、用事もないのに話せる友人というのは意外に少ないので、いい友人だ。

 

 

思えばK君は大学時代、楽しそうであった。

 

パチスロ、風俗、エロゲーという人間の欲望の塊の産物に毎日全力投球していた。たとえ、お気に入りの風俗嬢の指名が時間の都合で取れなかったとしても、そのことにいちいち腹を立てるのではなく、事が終わった後はいつでも爽やかな笑顔を浮かべていた。

 

パチスロで負けたとしても、彼の爽やかな笑顔は消えない。

 

考えれば不思議な話である。誰だって、楽しみにしていた風俗嬢との出会いを妨げられれば怒りが湧くと思うし、パチスロで負けたら、烈火のごとくマグマが煮えたぎるがごとく、怒りを露わにするものだと思う。

 

 

しかし、僕はK君が怒っている姿を見たことが無かったことに今更ながら気付いた。

 

そこで、何故K君は大学時代あんなにも穏やかな微笑みを浮かべられたのか聞いてみることにした。留年までしたくせに。

 

 

「君ってさ、かなり率直に言って大学時代かなり退廃した生活を送っていたよな?でも、僕は君があまり腹を立てているところを見たことがないんだよ。君は一体なぜあんなにも、穏やかでいられたんだ?」

 

 

長い沈黙がその場を支配する。K君の吐息だけが聞こえてくる。

 

 

「なぁ、ゆーすけ。君は大いなる勘違いをしている。例えていうなら、昔の神学者たちが太陽が地球を中心にして回っていたと信じていたようにさ。」

 

 

相変わらずK君の例えは言い得て妙である。

 

 

「俺はいつだって腹を立てていたんだよ。」

 

 

僕は、言葉を失うほどの衝撃を受けた。腹を立てていた?

 

 

「じゃあ、君はポーカーフェースだったということか?そりゃカジノで一儲けした方が、いい人生を送れたかもしれないね。」

 

 

「いや、ポーカーフェースなんかじゃない。俺は明らかに腹を立てていた。でも、その対象は自分自身に対してだったのさ。誰だって、完璧な人間はいない。もし、大した理由もなく磔にされたら、ほとんどの人間は腹を立てるさ。『これで罪は赦される』なんて考えられる人間は、ほとんどいないに等しいだろう。」

 

 

「僕たちは形而上的な存在ではない。」

 

 

「勘違いしてほしくないのは、俺は退廃的な生活から抜け出せなかったことに腹を立てたんじゃない。つまらない授業なんて、念仏に等しいよ。あれだったら、パチプロのメルマガを読んでいたほうがよっぽど役に立つね。俺が死んだときには、攻略法を念仏の代わりに読んでほしいってもんだよ。」

 

 

K君は清々しいほど、自分を肯定している。

 

 

「俺が一生懸命やって上手くいかなかったことがあるとする。例えば、1cmでもおっぱいが大きい子を探して、東京中を飛び回ったことがある。あれは、本当に骨が折れたね。だが、おっぱいが大きい子は、総じて人気がある。だから、やっと辿り着けたとしても、お宝を逃してしまうことがある。その時、明らかに俺は腹が立っていたさ。こんなに頑張ったのに何故ってね。」

 

 

「よく分からないな。そうだとすれば、君は不機嫌になっていてもおかしくは無かったじゃないか。」

 

 

「まさにそこがターニングポイントなんだよ。言うなれば、コペルニクス的転回だ。俺は、腹を立てている自分に腹を立てていることに気付いたのさ。人は一生懸命やっても報われなかったら腹を立てる。でも、それは俺にとっては限りなくみっともないことのように思えたんだ。」

 

 

「それが退廃的であったとしても。」

 

 

「そうだ、退廃的かどうかは大した問題じゃない。問題はもっと本質的なものだ。みっともない自分を責めるのはそりゃキツイことだったよ。どうすりゃいいか、毎晩のように考えたね。でも、俺はそこから抜け出せた。暗い森からパッと明るい平野に抜けたそんな感じさ。」

 

 

K君はどんどん饒舌になっていく。

 

 

「おっぱいが1cm大きいかどうかはかなり重要な問題だ。だからこそ、俺は求めた。まるで、勇者が少しでも勇敢な仲間を求めるように。でも、俺は気付いたんだ。その求める過程こそが、俺にとって大切なことだったんだ。つまり、巡礼した先にあるものではなく、巡礼の過程こそが大切だったんだ。」

 

 

おっぱい論を語らせれば、誰もK君には敵わない。一見下世話なようだが、K君にかかればそこには静かな光が称えられるような気もする。

 

 

「結論を言えば、おっぱいは一人ひとり違う。そのことに気付いたのさ。大きさだけが全てではないってことにね。」

 

 

言ってることが全く違うじゃねぇか。お前こそコペルニクス的転回をしてるぞと突っ込みたい気分でいっぱいだった。

 

 

よく思い出してみればK君は「おっぱいって揉めればそれでいいんだよね。」的な身も蓋も無いことを大学時代によく言っていた。

 

 

 

しかし、K君は満たされていたのだ。誰とも比べることも無い。自分だけの基準で、自分の世界を作り上げていた。そのことは事実なのである。

 

 

幸福とは、求めれば求めるほど遠ざかってしまうものなのかもしれない。

 

 

幸福の底なし沼は危険だ。

 

 

そこに入ってしまえば、抜け出すことは困難だからだ。

 

 

でも、脱出方法は必ずある。

 

 

それは、K君の話から明らかになったことだ。

 

 

そう、おっぱいは皆等しくおっぱいなのである。

省みない親切心こそが・・・

「Hi! May I help you?」

 

僕は座り込んでいる外国から来たであろう少女に話しかけた。

その後待っている展開など予想することをしないままで。

 

 

 

 

風を切る音が心地よい。

 

 

歩くことは一番好きだが、次に好きなのは自転車だ。その次がバイク。空気を身にまとう感じが好きなのだ。そして、スピード感を感じることが出来るのが好きだ。

 

自転車にはあまり束縛はない。強いて言えば、坂道が昇り辛いことだけだろうか。短時間であれば道端に止めても怒られないし、興味の赴くままに走ることが出来る。

 

何より、歩く時よりも遠くに行ける。車での移動が主流である地方の方は難しいが、東京なら自転車があれば、結構色々な場所へ行くことが出来る。そして、エリア誌などには載っていないような場所を発見することがささやかな僕の楽しみなのである。

 

 

 

急な質問で申し訳ないが、皆さんは、江戸時代最後の将軍「徳川慶喜」の墓がこの日本のどこにあるかご存知だろうか?僕も最近知ったのだが、日暮里にある。正確に言えば、日暮里からほど近い谷中にある。武家社会の頂点に君臨した最後の人物が、日暮里の近くに眠っている。日本史の中では、かなり有名な人物だろう。

 

正直に言って、僕は日本史にあまり興味がない。日本史の流れの論理みたいなものは好きなのだが、思い入れのある人物などはほぼ皆無である。ただし、戦国無双でもの凄くセクシーに表現されている武将は大好きである。今、放置少女というソシャゲーにハマっているのだが、もしも日本の武将が全員こんなにセクシーで美人だったら、どんなに良かっただろうと、思うのである。もし、僕が歴史オタクで、「由緒ある武将をセクシーに面白おかしく描くことなんて許さん!」なんて、考えを持っていたら、現代での楽しみの幅が少しだけ減っていたかもしれない。そう考えると、歴史に興味が無いのも少しは悪くは無いのかもしれない。男性諸君!恥を捨てて放置少女をやろう!!

 

 

そんなことはどうだっていい。徳川慶喜が眠る墓の周辺には様々な寺がビッシリ並んでいる。そして、少し歩けば最近すっかり有名になった「谷中銀座」がある。一度だけこの谷中銀座に行ってみたことがあるのだが、昔ながらの商店街といった感じだ。しかし、寂れている感じは一切なく、外国人観光客で賑わっており、全体として活気に満ちていた。

 

これは、商店街が息を吹き返した良い例なのだろう。もしかしたら、一度も危機を迎えたことは無いのかもしれない。一般的に、商店街は大型量販店の登場によって、軒並み苦戦を強いられている。肉屋、魚屋、八百屋など、最近めっきり聞かなくなった。実は、こういう専門店で食材を買った方が旨かったりするのだが。しかし、安さと便利さには勝てず、人々は大型量販店の方へと流れていく。次々に商店街の店は閉店し、シャッター商店街などど揶揄されている商店街がこの日本にどれだけ多いことか。

 

こういった渦中にあって、「谷中銀座」は商店街としての今後の在り方を体現している存在と言っても過言ではないだろう。外国人の中には、日本の文化を知りたい人も多い。日本の文化と言えば、京都、浅草なのだろうが、もう少し直近の時代にも焦点を当ててもいいのかもしれない。昭和の時代を生き抜いてきた商店街、そこだけ時代から取り残されているような下町、みんなが懐かしむあの日あの時。少し時間を遡ったところに存在したモノ達も、立派な日本の文化なのだから。

 

それにしても、外国人の観光客が多い。上野、浅草ではアジア系の観光客が目立つのだが、この地域には白人の観光客が多いような気がする。外国人観光客が多いことを見越しているのか、心の底から日本の文化が好きなのか、白人が着物を売ったり、外国人向けの周辺案内を配っていたりする。

 

歩いていれば、写真をお願いされたり、お願いされなくても「写真撮りましょうか?」なんて声をかけると本当に喜んでくれる。何なら、美人には調子に乗って

 

 

「日本の、簡単な挨拶をお教えしましょうか?」

 

なんて言ったら

 

「オー、アリガトゴザマース!!!ニッポン、ワタシダイスキ。アナタモットスキ!レンラクサキシリタイデース!!ハグハグ」

 

なんて、返されることを期待して話しかけても、大抵は苦笑いされて終わる。まるで、いう事を聞かない子供をあやす母親のように。そんな僕の親切心に期待通りに応えてくれる外国人女性なんて、フィリピンパブにしかいないのかもしれない。

 

 

国境を越えようが、国内にいようが、人間の本質は変わらないと思う。誰だって異国の地で親切にされたら嬉しいと思うし、また来たいと思うはずだ。

 

 

僕は、まだ若かったころ、世界を色々巡って旅をしたことがある。その時に受けた親切な気持ちは、10年以上経っても決して色褪せることはない。外国で親切にしてくれたら本当に嬉しいのだ。それは、心のどこかで外国に住んでいる人は違う人間であると思い、外国人に対して恐怖心を抱いているからかもしれない。

 

 

親切にしてもらったら、きちんと他の人にも親切にする。

 

 

こういったことは、大変に大事だと思うのだ。

 

 

ただし、僕は聖人君主ではない。だから、基本的には一人で困っていそうな人にしか声をかけない。グループで楽しそうにやっていたら、それはそれで放っておいた方がいいのだ。

 

自分の名誉の為に弁解をしておきたいのだが、決して海外の女性からいい人だと思われたいからやっているのではない。あの日あの時、僕に親切にしてくれた色々な人が僕を突き動かすのだ。さながら、アンパンマンのような親切な心で僕は動いている。こんな僕にも親切にしてくれた、だから返したいのだ。たまたま、女性の比率が高いということはあるかもしれない。しかし、それはたまたまであって、サイコロの目と同じように、同じようにずっと親切にし続けていたら、男女比はおおよそ1対1になるだろう。だから、僕のせいでは決してない。わかりましたか!?

 

 

ヒートアップして申し訳ない。

 

 

 

ある日のことだ。僕は自転車に乗って、谷中の方まで向かっていた。風を切る音が心地良い。

 

別に徳川の墓を見たいわけでもなく、商店街に用事があったのでもない。ある場所に僕は急いでいた。まるで、天竺に向かう三蔵法師のように。

 

僕にとっての天竺がそこにはある。

 

 

「小鳥カフェ」

 

 

これが、僕の向かっていた先だ。

 

ここには本当に可愛いインコたちがたくさんいる。そして、そのインコたちを見ながらコーヒーが飲めるのだ。僕は、鳥が大好きだ。特に、ペンギン、オカメインコが大好きなのである。特に用事もない日は、カップルだらけのこの店に一人で行って、インコたちを見ながらコーヒーを飲んでいる。大抵、革ジャンを着て。

 

 

その日も、色とりどりのインコたちに癒されていた。

 

インコたちはせわしなく喋っている。きっと僕のことを話しているに違いない。

 

 

「あ、鳥王子だ!!こんにちは!!」

 

「鳥王子!サインちょうだいよ!!」

 

「どうやったら、僕も鳥王子みたいにかっこよくなれるかな?」

 

 

何と可愛らしいことか。まるで、天使である。お前らの為なら、僕死ねる。

 

 

鳥たちを堪能し、ぎこちない笑顔を浮かべる店員に代金を払い、店を出る。

「また来るね」という、親切心溢れる言葉を残して。向こうはテンプレ的な挨拶しかしてくれなかった。

 

 

それでも、いいのだ。親切心が伝われば。

 

 

 

夜の帳が下り始めてきた。

 

そろそろ帰ろう。

 

 

ライトをつけ、自転車を走らせる。

 

 

 

すると、真っ暗なお寺の入り口で座り込んでいる白人の女性を発見した。

 

重ね重ね申し上げるが、僕はお節介な人間なのである。こんな静かで暗い所に女性一人でいたら大変じゃないですか!

 

さぞかし、困っているのであろう。きっと帰る方向が分からなくなってしまったに違いない。なんなら、僕が送ってあげてもよかですぞ!

 

 

 

「Hi! May I help you?」

 

 

流れるような英語で僕は、彼女に聞いた。

 

 

 

 

「Oh! My God!!!!!!!!!」

 

 

女性は全力で逃げ出した。まるで、ライオンから逃げるインパラのように。

 

 

 

親切心は必ずしも報われるわけでは無い。

 

でもきっと、この親切の連帯こそが平和へと繋がっていると、僕は確信している。

 

川辺のカール

しばらく寒い日が続いていたが、久しぶりに暖かな日差しに包まれ始めた。

 

今まで着ていた厚手の服を脱ぎ、新しい服に着替え、外の広々とした世界へ足を踏み出す。

 

 

ちょっと今日は、少し遠くまで歩いてみよう。

 

そんなことをふと思いついた。

 

 

歩くという行為は、様々な発見をもたらしてくれる。自転車やバイクの速度では発見できないようなものが。路地に入ることも自由だし、少々の高低差なら飛び越えることが出来る。隈なく移動が出来るという意味において、歩くという行為が一番自由をもたらしてくれるように思うのだ。

 

 

僕たちは自分の近くにあるものを意外と分かってはいないことが多い気がする。

 

 

休日を除けば、基本的には職場と家との往復が外へ出る機会である。外回りをする営業マンは、外出する機会が多いけれど、仕事中は自分の考えを膨らませるほど暇ではないし、常に効率のことを考えて動かなければならない。そうすると、自分の周りにあるものに対しての意識が希薄になるのも不思議ではないだろう。

 

近所を歩くことによって、例えば物理的なことであれば、知らなかった店を発見できるとか、知らなかった駅への近道、知らなかった公園を発見するかもしれない。また、歩くことによって思考がどんどん深まっていき、自分の考え方を新しく発見することもあるかもしれない。

 

僕にとっては、圧倒的に後者の方を期待して歩くということをしているような気がする。外界で巻き起こる何かを期待しながら。その出来事が、材料となって僕の思考は深まっていく。

 

 

 

道を歩いていると、一本の細い川を見つけた。近くには大きな川が流れているが、この細い川は、いかにも子供が楽しむのにおあつらえ向きのものだ。川は、存在しているのを知られないよう注意しているかのように、静かに流れていた。誰かの手によって、水際の植物は手入れされているのだろう。自然に出来ているようで、さりげなく人の手が加えられていることは、観察しているとよく分かった。

 

 

そこには先客がいた。

 

 

真っ黒なカラスだ。しかし、普段見かけるようなカラスにしては一回りほど小さい気がする。そのカラスは、川べりで水をつつくようにして飲んでいた。まるで、川の中から自分の天敵が現れるのを恐れているかのように。

 

僕は、その光景を見ていた。しばらくすると、こちらに気付いたカラスが空へと飛び去っていった。

 

僕は、カラスが水を飲んでいるところを始めて見た気がする。それも、このような自然が存在する川で。

 

 

カラスに対しては、どんなイメージをお持ちだろうか?これは、都市部に住んでいる人と、田舎に住んでいる人でイメージが違うと思う。僕も田舎から、東京に出てきて驚いたのだが、東京は都市部においてはカラスと人間の生活圏がほぼ一致しているのだ。だから、カラスを見かける機会は東京の方が多い気がする。

 

カラスはゴミをあさり、人間に迷惑をかける。そして近づくと攻撃を加えてくる。こういうことから、カラスはあまり好ましく思われていないだろう。それには、その姿も関係していると思う。なにせ、真っ黒なのだ。黒のリクルートスーツを着ている就活生と同じくらい真っ黒なのだ。見ていて、不安に駆られるのも無理はない。黒のリクルートスーツを着ている就活生を見て、日本の画一性に不安を覚えるのと同じように。

 

 

しかし、僕が見たカラスは決してそのような存在では無かった。何かに怯えるように、静かな川で水を飲んでいたのだ。そして、見つかれば大空へと飛び去って行く。考えてみれば当たり前なのだけど、カラスにも水は必要である。しかし、このようなゴミも無い場所でカラスが水を飲むなんて、考えたことも無かった。それよりは、カラスには大変失礼だが、新宿とか池袋のゴミ捨て場で、捨てられているミネラルウォーターのペットボトルから流れてくる水をすする方がしっくりする気がした。

 

 

 

いつの間にか、僕たちはイメージで物事を塗り固めているかもしれない。目で見えているものだけからイメージを作り上げてしまい、その裏を見ようとはしてないのかもしれない。

 

 少なくとも僕は、カラスに対してイメージが良くなったのは事実だ。

 

 

 

しかし、ちょっと待ってほしい。別の可能性も考えなければならない。

 

  

それは、カラスが意図してそのような場面を僕に見せた、という可能性だ。

 

考えてみれば、カラスのイメージは人間の世界、特に東京ではダダ下がりである。それは自分たちの自業自得ではあるのだが、なぜ、鳩は全くと言っていいほど叩かれない、なんなら可愛いとまで言われているのに、俺たちカラスはこんなにも叩かれなければならないのだろうか。

 

あいつら人間は面白おかしく俺たちのことを取り上げて、俺たちをあざ笑っていやがる。まったくもって憎たらしい。しかし、このままではいずれ俺たちが人間の世界から排除されてしまうのは時間の問題だろう、そこでどうだ。やはり、俺たち自身でもイメージアップを図っていかなければならないのではないか?

 

 

カラスたちがこう考えていても、全くおかしくはない。悲痛なカラスの叫びが聞こえてくる。夕暮れの「カー、カー」という声は、もしかしたらこのような叫びの表れなのかもしれない。

 

そこで、カラスたちは考え、話し合う。

 

よし、まずは俺たちも普通の動物と同じようにしているところを人間に見せよう。ゴミばかり漁っていたのではダメだ。きちんと川の水を飲んで、人間に危険の無いことをアピールしなければならない。そうだな、そうと決まればやってみよう。やはり、キャストには少し小さめの個体がいいんじゃないか?大きいと怖がる人間もいるだろう。そして出来るなら俳優志望がいいだろうな、演技も上手いから。でも、ギャラは高いとこっちも苦しいから、なるべく若手をブッキングしてもらうようにしよう。カー

 

 

 

まぁ、こんな感じで会話が交わされているに違いない。

 

 

全ての準備が整い、「カラスイメージ向上週間」が始まった。「やっていこう みんなでもっと 好きになろう」という標語が掲げられた。

 

 

 

そして、その作戦は見事に成功し、僕はカラスに対するイメージが変わったのである。カラスの作戦は成功である。その後、カラス達の間では、このような会話が繰り広げられているに違いない。

 

 

 

「コンコン、失礼しまーす!お疲れ様でしたー!あのー、僕大丈夫でしたかね?」

 

「んー?いや、まぁまぁだったと思うよ。本当は、もう少し可憐に見せた方が良かったと思うけどね。」

 

「いや、本当すいませんでした!しかし、僕みたいな若手を使って頂いてありがとうございます!」

 

「いや、いいんだよカール君。ところで君、セリフは覚えられる方なの?」

 

「はい!割と養成学校の方でやっていたんで大丈夫だと思います。」

 

「あ、そう・・・。今度丁度、来クールから始まるドラマの会議があってね、君のことを推薦しようと思うんだけど、どう?やる気ある?」

 

「え・・・!はい!願ってもない話です!ありがとうございます!!」

 

「そうかそうか。じゃあ、推薦しとくよ。ところで君、今のこの仕事のギャラは満足しているの?」

 

「え・・・。いや・・・。正直言えば苦しいものがあります。」

 

「困るなぁ・・・。こっちは結構これでも出しているんだよ?若いときは苦労しないとねぇ。さっきのドラマの話だけど、君がこの仕事をやり切ったらの話だから、そこのところ、よく覚えておくようにねぇ。」

 

「は、はい!わかりました!全力でやらせて頂きます!」

 

「ん。分かればそれでいい。もう行っていいぞ。次は丸の内でよろしく頼む。」

 

「丸の内ですか!?ちょっと、飛んでいくには遠い気が・・・。」

 

「何?不満なの?」

 

「い、いえ!喜んでやります!」

 

「では一時間後に、丸の内で頼む。」

 

「分かりました!それでは失礼します!カー!!」

 

 

部屋に一人葉巻を吸い込むプロデューサー。

「あいつもバカだな。まぁ、使えなくなるまで使えればいいか。わーっはっはっはっは!カーッカッカッカッカー!」

 

 

 

カラスの世界も大変なのだ。どこの世界にも序列というものは存在して、強くなければ生き残っていけないというのが、摂理なのだろう。

 

 

カラスの若手カールは、これから先、大変な人生、いや烏生が待っている事だろう。でも、彼が僕に与えてくれたイメージはとても良いものだった。その意味で、彼は自分の役割を果たしたと言える。

 

ありがとうカール!これからも頑張れカール!

 

 

 

その後、僕は自分の家に向かう途中、カラスがもの凄い勢いでケンカしているのを目撃した。

 

きっと、あのプロデューサーの汚いやり口に業を煮やしたカラス達が憤慨して、襲っていたのだろう。

 

 

因果応報。

 

 

 この言葉は事実同士の目に見えないつながりを表しているのに違いない。

 

 

 

僕には、あのカールの爽やかな笑顔が見えた気がした。

ひさかたの光のどけき春の日に

3月から4月にかけては季節の流れが速い気がする。

 

 

気温が上昇したり、雪が溶け緑が見え始めるからかもしれない。

 

しかし、この季節の流れを感じさせる一番の原因はやはり桜であると思うのだ。

 

 

桜があるだけで春を感じることが出来る。たとえまだ肌寒くても否応なしに春の到来を感じることが出来る。この時期は、卒業があったり入社入学があったりして、自分の身の回りの環境が一気に変わる季節でもある。誰でもガラリと環境が変わることは経験しているはずで、その時期には大抵桜が咲いている。人生の新たな門出を祝福してくれるかのように美しく咲く桜は、僕たちの気持ちを一新させるのに一役買っているのかもしれない。

 

 

桜は、儚い。

 

 

桜という花が自身の美しさを最大限に表現させることが出来る時間は、ほんの僅かなものだ。花が満開になってから散ってしまうまで、僅か一週間しかない。その美しさを表現するために、木は一年のほとんどを寝て過ごす。より美しく開花するためには、エネルギーが必要なのである。桜も我慢している。満を持して、自分の美しさを最大限に表現しているのだ。

 

この儚さがあるからこそ、桜は人気なのだろう。「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ」。百人一首でも詠まれている通り、日本においては昔から馴染みのある花だ。咲いている時ばかりではなく、散ってしまう姿も美しい。これこそ桜の醍醐味であろう。

 

散りゆく桜を見ていると、懐かしい思い出が優しく、しかしはっきりと僕の脳裏に蘇ってくる。

 

 

 

中学生の頃。真面目な僕はもの凄く真面目な友人と、落ちているエロ本を集めるのに夢中になっていた時期がある。まだインターネットも発達していなかったので、気軽に女性の裸を見る機会が無かったのである。路地という路地を歩き、公園という公園を探しまくり、沢山の本を集めた。

 

普通は一冊でも発見すれば、すぐに中身を見て使いまわすのが基本である。僕は少なくともそうしたかった。しかし、友人は僕の一歩先を見据えていた。

 

 

「おいゆーすけ、まだ中を見ちゃだめだ」

 

 

「何で?すぐに見てどこかにまた捨てようよ」

 

 

「お前は、全く分かっていない。一つ聞きたいんだが、この世で最も美味しいものってなんだと思う?」

 

 

僕は、友人の真意を測りかねて沈黙してしまった。

友人は、そんな僕の困惑した顔を愉しむように話を続けた。

 

 

「それはな、砂漠で飲む水だよ。渇きが何の変哲もない水をこの世で最高の飲み物に変えちまう。そう、渇きこそが必要なんだよ。」

 

 

何となく友人の言いたいことは分かったが、なぜそれがエロ本をすぐに見ないことに繋がるのかは、全く分からなかった。

 

 

「分からないのか?あの桜を見ろよ。桜は、一瞬しか咲かないだろ?桜は、そういう意味では花としての性質は未熟かもしれない。でも、その一瞬という限定されたものがあればこそ、皆が見たくもなるし、何より桜はその為にエネルギーを貯めているんだ。皆、桜を見たいという想いに一年じゅう渇かされているんだ。」

 

 

友人は熱っぽく、まるで演説をするかのような勢いで僕に訴えかけた。

 

 

「このエロ本の価値を最大限に高めるためには、渇きが必要なんだ。わかるか?ゆーすけ。」

 

 

「渇き・・・?」

 

 

「そう、渇きだ。だから、僕たちはすぐにこのエロ本を見てはいけない。満たされてしまうからだ。毎日シャトーブリアンを食ってみろよ。飽きるだろ?胸もやけるってもんだ。だから、エロ本は見つけたらすぐには見ないで、なるべく貯めよう。そして、性欲が渇きに渇いたところで見よう。想像するだけでわくわくしないか?きっとその時に見えるものは、孫悟空達が求めた天竺よりも遥かに価値があるものだと思うぜ。」

 

 

僕たちの会話が交わされた場所では、桜が優しく咲いていた。まるで、子供たちの会話を微笑ましく聞いている母親のように。

 

 

そして僕たちは、秘密の場所を設け、エロ本を大量に集めたのである。

 

あぁ、早く見たい。でも、まだまだ精神的な渇きが必要なんだと自分に言い聞かせながら。

 

 

 

そして、随分色んな意味で色々たまった頃。友人がそれはそれは発情期の雌ライオンみたいな顔をして言った。

 

「時は満ちたな。」

 

ただ単にお前が我慢できなくなったんじゃねーのか、と突っ込みたかったが、僕は彼に同調した。僕も我慢の限界だったのである。

 

 

そして学校が終わるや否や、友人と猛ダッシュでエロ本の隠してある場所へと向かった。

 

 

確かにこの気持ちならば、それはそれはもの凄く中身が良く見えるものだろう。たとえその本の中身が、セーラー服を着たややきつめのおばさんだとしても、僕たちにとっては女神がのように映るだろう。なんならその場で自慰を始めても決しておかしくはないほど、僕たちは飢えていた。

 

 

はやる気持ちを抑え、エロ本の隠し場所にしていたとある公園にたどり着いた。まるで、インディージョンズの宝が眠っている部屋の前までたどり着いた気分である。さぁ、いこう。いよいよこの冒険譚に終止符を打つ時が来た。長く、そして険しい道のりだった。

 

そして、僕たちはベンチの裏を覗き込んだ。

 

 

 

無い。手間暇かけて集めたエロ本が入っている段ボールが丸ごと無くなっていた。

 

 

僕と友人が絶句したことは言うまでもない。砂漠を歩いていて、オアシスだと思って近づいたら蜃気楼だった。きっと僕はそんな気持ちだったのだろう。

 

 

僕は率直に言って友人を恨んだ。時間を返してくれ。何より、行き場を失って暴走している飢えが抑えがたく、それは怒りという形を取って友人に向けられた。

 

 

僕はありったけの恨みを込めて、友人を睨んだ。

 

 

 

しかし、なんということだろう。友人は僕に微笑みを返したのである。そして、彼は言った。

 

 

 

「しづ心なく花ぞ散るらむ。」

 

 

僕は何も言い返せなかった。

 

後日、その友人は他のクラスの奴から焼き増しされたAVを渡されていた。お前の信念はどこにいったんだ、おい。

 

 

 

散りゆく桜はそんな青春の一ページを思い出させてくれた。

 

 

桜が舞う季節もそろそろ終わりを告げる。今年も桜は僕たちの心を大いに潤してくれた。

 

桜は散る間際こそ美しいのかもしれない。

 

そして散ってからもなお、僕たちの心に潤いを与えてくれる桜は、美しさのほかに何か力強さを僕たちに与えてくれる。

 

自分の役割を終えた今年の花は、来年の花にバトンを渡すべく散り、そして木はエネルギーを蓄え始める。

 

こうして、生命というものは受け継がれていくのかもしれない。

 

そして僕たちは、またきっと来年の桜を見ることに飢えに飢えて、その渇きが桜をより美しいものにしてくれるのだろう。

 

 

美しく散る桜を見ていると、友人のあの微笑みが脳裏に蘇ってくる。

 

 

 

「しづ心なく花ぞ散るらむ。」

 

そしてピッコロ大魔王は悟空を打ち抜いた

僕は自分自身を誰よりも攻撃している。

 

 

最近、そんなことをよく思う。

 

 

ブログのタイトルにもあるように、僕はパニック障害にかかってしまった。発症当時のことを思い出すと、それはそれは辛い日々を送っていたなと思う。電車にいきなり乗れなくなり、病院へ駈け込んでから今月で4ヵ月になる。発症当時と比べると圧倒的に出来ることは増えていて、自分のやりたいこともかなり出来るようになってきた。こうして毎日下らない文章を書いていても、症状が出ることは無いぐらいにまで回復した。

 

もちろん、ここまで回復できたのは薬の力が大きいことは認めざるを得ない事実だろう。やはり医学の力は大きいと実感している。と共に、自分の生活を見直したり、症状が出た時の対処法を自分なりに考えたことは、多少なりとも症状の改善に貢献しているように思われる。

 

病気というものは大変厄介なものだ。例えば、風邪をひいたと一口に言っても、考えられる原因は様々あるだろうし、ある一つの事柄だけに原因を求めるのは到底無理なことだとも思う。まして精神疾患ともなると更に話は複雑になってきて、自分の性格や周りの環境、はたまた幼少期のことまで遡って原因を追究したら、きりがないのだ。

 

 

いかに複雑かは、インターネットを見ればすぐに分かる。

 

仮に、パニック障害の原因が一つに特定できたならば、治療法の情報がこんなにもネットに溢れなかっただろうし、そもそも、僕もパニック障害の対処法なんて書こうとも思わない。

 

もしもパニック障害が、インフルエンザみたいに特定のウイルスを殺すことで治るものなら、どんなに楽なことだろうと思う。でも、実際はそうはいかなくて、何十年もこの病気と闘っている人が実際にはたくさんいるし、そもそも「完治」という言葉さえも存在しない病気なのだ。

 

しかし、「病気」である以上必ず原因は存在する。それは、一次元や二次元で測れるほど単純ではないだろう。もしかしたら十個の座標軸を定めて考えなければ、その原因は特定できないものなのかもしれない。

 

 

手始めに、生活習慣とか、自分の身体的な特徴は抜きにして自分の心を覗いてみよう。少なくともそれは、無暗に妖しい治療法を信じるよりも有効なことだと思う。

 

自分の心を覗くというのは難しい。それは雲を掴むような話で、仮に、自分の心の中に何かしらの感情が存在しているのを発見したとしても、その感情がいつ頃から存在していたのかを思い出すのはかなり難しいことであるし、そもそも自分の姿を鏡に映しているようで、あまり気乗りがしない。

 

苦手なカラオケに無理やり誘われて、周りの空気に全くついて行けず、自分の惨めさを噛みしめることに似ている。周りが賑やかになればなるほど、自分の姿が冷静に映し出されてしまう気がした。その夜、涙で枕が濡れたことは言うまでもない。

 

 

さて、自分の心を覗いてみた時に存在していたのは、「自分を否定している自分」だ。理想とのギャップが存在すると、今の自分を否定する方向に思考が行ってしまう。まるで泥沼に足を取られるようで、一度はまるとなかなか抜け出せない。そして、やがて泥沼は底なし沼へと変貌を遂げる。

 

しかし、こういう理想と現実とのギャップで悩むからこそ人は自分のいる位置を把握できるのだろうし、その負の感情を糧として努力をすることによって、更なる成長を遂げることも可能になるということも否定できない。

 

 

中学校の頃、いかに円周率を言えるかが格好良さにつながると考えていた僕は、必死に200桁ぐらいまで円周率を暗記したことがある。円周率が覚えられない。何度も悩んだものだ。こうやって努力するのも、愛するユミちゃんの為。僕、君の為なら死ねる。「3.14159265359..」「さあ、いいよ行こう急にロングでゴマさんごっきゅん・・・」。こんな語呂合わせを作りぶつぶつ家で唱えていたが、親はさぞかし心配したであろう。もう、ユミちゃんしか見えない。

 

そんな猛烈な努力が出来たのも、理想の自分と今の自分の間のギャップに苦しんだからだ。苦しみという負の感情が無ければ、全く努力なんてしなかっただろう。

 

ちなみに、後日ユミちゃんの前で円周率を披露したら、「で?何?」と言われ、僕は悲しくなった。いや、もしかしたら興奮したのかもしれない。こんなに努力したのに一蹴するユミちゃん、そして詰られる僕。このシチュエーションに興奮しないで、一体何に興奮すれば良いのだろうか?教えてアルムのモミの木よ。

 

 

さて、生き聖人のように真面目な僕のように、自分の内側に負の感情が向けられるのならまだ良いが、他人への攻撃につながる場合もある。自分の存在意義を確かめるために他人を攻撃して、相手を陥れた時に自分の存在意義が明らかになったような気がするのだ。

 

自分の存在意義を確かめたいがために、その行為はどんどんエスカレートしていって、ブレーキの利かないトロッコのように暴走し始める。頼まれてもいないのに自分と真っ向から反対する意見を、もぐら叩きのように叩きに叩き、そして満足する。叩かないと、自分の存在意義を確立できないのだ。

 

 

僕は、自分自身に対する攻撃が過剰になっている気がする。世間から見た自分と、自分から見る自分との間にギャップを感じ、いわゆる一般常識に自分を従わせようとしていた。

 

常識とは厄介な概念で、実際に編集されたことも無いのに、暗黙の了解のもとで得られた集合知のようなものである。

 

簡単に言えば、アイドルはうんこをしない、魔貫光殺砲ラディッツと共に悟空を殺したピッコロは、最善の判断をしたヒーローである、そんな感じだ。

 

でも、アイドルだって人間なんだからうんこはするだろうし、ピッコロはもしかしたら本当に悟空を殺したかったのかもしれない。だってピッコロは、「ざまぁみやがれ・・・。ハァハァ・・・。」なんて捨て台詞まで吐いている。ドイヒーだ。いっそ清々しいものさえ感じる。

 

 

 

そうなのだ。常識とか、正義とかは相対的なものであって、時代と共に、場所と共に変化するものなのだ。

 

もしかしたら、今自分自身を攻撃している材料の常識なんて、数年後から見れば「チョベリバ」なんて時代遅れの言葉のようなものになっているかもしれない。放置少女にハマりまくっている僕はチョベリバだ。

 

自分で自分を攻撃しているものなんて、本当は実体の無い幽霊のようなものなのかもしれない。自分で勝手に想像した敵に過剰に自分を攻撃させ、どんどん傷ついていくなんて、とんだお笑い草だ。

 

 

 そうやって笑えるようになるまでには時間がかかるかもしれないが、少しずつ進んでいこう。

 

 

 

そうだ。自分自身を攻撃している自分を発見したら、その敵を見極めて打ち抜こう。

 

 

 

悟空を貫いた魔貫光殺砲で打ち抜いてやればいいのだ。ピッコロ大魔王のように。

 

 

 

そして、言い捨てよう。

 

 

はぁはぁ、ざまぁみやがれ・・・!